2018年4月5日木曜日

創作:竜屋

竜屋

 いい物件が見つかって、良かった。
 湖に面しているのが、難点と言えば難点だが、隣の住宅から数百メートル離れている、一ヘクタールの庭付き物件で、この値段はそうない。
「あ……いなか者ですので、よう分からなくて。どこか、欠陥やら……?」
 不安に尋ねると、いかにも火酒を好みそうな赤い頬の男は、かんらと笑って白い息を吐いた。
 こんなに笑うテクト人はいない。たぶん、今も酒を含んでいるのだろう。
「何分、この寒さでしょう。それに市街地から離れている。買い手がつきませんでね」
 そうかもしれない。テクトは寒い国だが、それにつけて湖の側で、山も近いとなると。
 頷いて、最終的な契約を交わす。契約書と契約の確認は予めしてあったので、後は、サインを刻み、契約金を支払うだけ。
 ぽんと現金を渡された不動産屋は、機嫌が良さそうに、寂しい頭からずれた、毛皮のフードを直す。
「確かに。今日から、ここは貴方の物ですよ……ところで、随分お若いようにお見受けしますが、ここにお住みなさる?」
 いえ、と首を横に。
 その動作で、彼の首からぶら下がる、もったりした胴長のものが、短い手足をばたつかせ、恨みがましく主人を見上げた。
 その柔い口を撫で、宥めすかす。
「僕は、竜屋なんです」
 主人の指を舐め、マシュマロドラゴンが一声「かぺ」と鳴いた。

竜屋と一口に括っても、様々な種類がある。
 交配と出産の世話をするブリーダーに、トレーナー。トレーナーにも乗用、戦闘、競竜と、専門家がいるものだ。
 彼、ルノーシャンがどこに当て嵌まるかと問われれば、まあ色々できます、としか答え様がない。
 彼は幼いうちから故郷の牧場で、牧場主と竜医に仕込まれて育った。竜の出産から、赤ん坊の世話、初飛行の指導など、大体のことは心得ている。
 と言っても、独立して店を構えれば当然、仕事がなければ始まらない。彼はそこも押さえて、開店する前から、郵便局と運送竜の預かりをする契約をとっていた。
 郵便局としても、大事な[足]たる竜のケアや訓練に、遠方の牧場まで送らなくて良いのは便利なことらしく、一も二もなく承諾してくれた。
 こちらの腕の程を、知ろうともせず。
 仕事は有難いが、世間の、竜に対しての理解のなさを、感じずにはおれない。
「じゃ、お願いしますね。一週間後に、別の竜を連れてきますんで」
 ショートエルダーを二頭、引率して来た郵便局の飼育係は、乗って来たエルダーで飛び去った。
 見知らぬ場所で置いてけぼりを食らった緑の竜たちが、気まずげに佇んでいる。戦闘竜のように、暴れ出したりしない。行儀の良いことだ。
 ルノーシャンは二頭の間に入り、彼らの首を抱き寄せ、ざらついた硬い皮膚を撫でる。凍る空気にすっかり萎縮していた。
「寒かったでしょ。ぬくい場所に行こね」
 ショートエルダーは、繁殖と飼育の楽で流通し、竜といえばエルダーと言うほどオーソドックスな乗用竜だが、そもそもは南国の熱帯雨林が彼らの棲家。こんなに乾燥した、極寒の地は苦手なのである。
 彼らを迎えるため、魔動ヒーターと加湿機を竜房に用意していた。
 そんなものを覚えさせては後が大変だが、そこはそれ。こちらも商売なので、竜たちにはしょっちゅう来て貰わねばならない訳で。
 どこの飼い主も、房にヒーターを設置してくれれば良いのに、という下心もある。
「カプー。おいで」
 伸び放しの芝生を食んでいた、小さなマシュマロドラゴンが「かぺ」と鳴く。
 ああして、地に寝そべる姿は、大きな芋虫のようだ。
 彼はぷっと口を引き結ぶと、背に力を込める。そこにある、小さな翼は風船のように膨れ、はばたけば餅菓子のような身が浮いた。
 彼は、新入りに対して「ついてらっしゃい」とでも言うかのように、つんと顎を上げた。
「偉そうに」
 途端、ショートエルダーの一頭が噴出した。つられて、もう一頭も。
 言葉を正確に解したかは不明だが、先輩ぶったカプーが、主人に窘められた。そのユーモアを理解するだけの感性が、竜にはある。
 店舗の裏に建て増しした、新築の竜舎に入ると、ルノーシャンが個人的に飼っているフェザードラゴンが、その細面を上げる。が、一瞬だった。
 彼は、他人にあまり興味を示さない―――主人のルノーシャンにさえも。
 このスレンダーのフェザーは、元は兄の飼竜だった。
 暖かい竜房に面食らうエルダー二頭を押し込め、溜息をつく。
(お兄さん、元気にしてはるかな)
 お金をせびりに来るのでも構わないから、顔を見せに来ないものか。
 すかんぴんになって、白海に沈められていなければ良いのだが。
 もう一度、溜息。寄ってきたカプーを首に巻き、竜房から店の方へ足を向ける。
 専門用品の在庫が一箇所に積まれ、棚は空という光景は、何とも寒々しい。
 早いところ、あれらを品出しして、開店したいものだ。
 十の年からずっと、竜に馴染みのない地域で店を構えるのが、夢だった。
 気温は氷点下近いのに、なんだか顔がカッカして仕方ない。これは子供のころ、はじめて出来た友達と、ピクニックに行く約束をした日の、前の晩の気持ちに似ている。
 カプーが不審そうな目でこちらを見ていた。
 ばつが悪く、咳払いをひとつ。乾いた空気と、店内の埃とで、喉がいがらっぽい。
 ルノーシャンは昨晩、カウンターに置いたポスターとテープを手に取り、ショーウインドウから外へ出る。
 両手いっぱいも広げるポスターには、竜屋の文字と、従業員募集の案内を記してある。
 看板の完成はまだ先なので、暫くはこのポスターが、店の正体を示すことになりそうだ。
「おかぁさん、パン屋さんがつぶれたとこ、あたらしいお店だよう」
 シアンリハ女性特有の、語尾の伸びた小さな女の子の言葉。ルノーシャンは顔を上げた。
 こんな郊外にも、通行人がいるとは。
「何屋さんかなあ……」
 少女と目が合った。
 キャンディーのような丸い、彼女の目が、きつく見開かれる。
「お化けですう!」
 火がついたように泣き出す娘。母親のほうは「失礼なことを言っちゃあダメですう!」と叱り、足早に去ろうとする。
 ルノーシャンは、暗い店内のせいで、鏡のようになったショーウインドウを覗き込む。
 目鼻立ちは良う、整ってはるよ。と、褒められることがあった。
 その優しくも悲しい気休めは、生まれついての強烈な一点の前には、塵も同じ。
 一重瞼に、濃い隈の三白眼。
 子供も泣くというもの。
 硝子に浮かぶ三白眼に、じんわり涙が浮かぶ。男のくせに、泣き癖があった。
 朝の華やいだ気分が、嘘のようだ。
 カプーが首を伸ばして、主の頬に伝った涙を舐める。名称どおり、マシュマロのような柔らかい舌が……鼻水まで舐めようとするので、そこは遠慮しておく。
「あ……」
 ショーウインドウに影が落ちた。背後に人が立ったのだ――それも、竜のような大男である。
 口元を覆いながら、振り返るなり、ぎょっとした。少女の気持ちが少し、分かった。
 二メートル十センチはゆうに越す、大柄なその男は、毛糸の覆面頭巾を被っていたのだ。
 すわ強盗か。恐怖と混乱で腰が抜けそうになったが、その男、奪うどころかちり紙を差し出してくれた。
 穴があったら埋まりたい。しかし、困っていたのは確かで、有難く頂戴する。
 鼻を拭い、再び顔を上げると、思いがけず澄んだ瞳とかち合った。
「あ……何か、僕に御用やら……」
 すると、彼はルノーシャンの先を指差す。
 求人募集のポスターだ。
 何だって、この奇妙な人は、こんな人里から何キロも離れた、まだオープン前の店で働こうと言うのか。
 ともあれ、この寒空の下、立ち話も辛い。
 数時間前に点火した石炭ストーブも、換気が済んだ頃なので、店内に男を招き入れ、窓を閉める。
 カウンターの向かいに丸椅子を置き、変わった求職者に勧めた。窮屈そうだった。
 男は、口を引き結んだまま、「書くものを」という素振りを見せた。
 筆談によって得た情報によると、氏名は「サノバビッチ=バルバル」。どう好意的に解釈しても、偽名だろう。
 住所は、「パペリ・マンション三号室」。これは有名な大型団地で、三号室という表記は、大味過ぎる説明だった。
 最後に、「郵便局の飼育係を務めていたため、竜の扱いは多少、知識がある」と動機を述べた。
 そこに嘘はなかろう。彼は、竜に縁のない人間にありがちな、変てこで可愛いカプーへの過剰反応をせず、かと言って全くの無視もしない。
 竜は、こういう、つかず離れずの人間に興味をそそられるものだ。現にカプーは、それとなく構ってもらいたいアピールをして、主人の肩からずり落ちかけている。
 しかし、果たして、このあからさまに得体の知れない男を、雇っていいものか……
 気まずい沈黙が流れる。
「こんにちはあ!」
 静けさを打ち破る、ラッパのような声。
 目前の巨体のせいで、店の前が死角になっていた。ルノーシャンはカウンターから出て、ショーウインドウの外から手を振る少女に首を捻る。
 十代半ばだろうか。木の実のようなぱっちりした瞳と、ふわふわにボリュームのある、ショートボブが可愛い娘だ。白いファーのついた、赤いジャケットとブーツが、この地域らしさを感じる。
 彼女の背後に、乗ってきたらしい馬が鼻を鳴らしている―――あの裾の短いジャケットで乗馬していたのだろうか。
 きらきらと目を輝かせる彼女、ルノーシャンの首から下がるカプーに気づいて一瞬、唖然としたが、それも一瞬のこと。
「事務員! 募集中ですう?」
 こちらからはただの白紙である、ポスターを差す。
(どないしよぅ……)
 ルノーシャンは、心底困ってしまった。
 ポスターこそ貼ったものの、情報誌に求人募集の広告を、掲載して貰おうと考えていた。
 早くに人が来てくれれば、それは有難いが、怪しい覆面男に、年端もゆかぬ少女……特に事務員には、金銭管理も任せたい。
 娘のほうも、こちらの困惑を汲み取ったのだろう。
「うち、この先にある雑貨屋の娘ですう。お店や経理の手伝いしてましたあ」
 お手伝いと言っても、どの程度なのやら。
 疑ってから、苦笑した。自分とて、ほんのおとついまで牧童だった訳で、彼女を見下す資格はない。
 求人広告を出すにしても、結構な金が要る。すでに、予想外の出費でかつかつなのだ。贅沢を言う立場ではない。
 ひとまず店舗横の客用厩に、彼女の愛馬を繋ぎ、中へと招く。
 この娘、名をミウシャと言うらしい。愛くるしい外見と裏腹に、変わっていると言うか、根性が据わっていると言うか……
 子供も泣くルノーシャンの顔立や、奥の竜たちにも、小さな椅子に腰掛ける異様な覆面男にも、特に感想がないらしい。当然かのように、シュールな店内で自然に振舞う。
「あ……では、仕事の説明やら」
 何だか、本格的に自分が店主だという実感が湧いて、緊張した。
「うちの竜屋は、よその竜をお預かりすること、専門品の小売店として収入を得ます。あと、竜のマスター向けの、講座やら開く予定です。
 一番の顧客は、竜の預かり長期契約をした郵便局。そないな契約は、今後も増える予定です」
「どうして、よその子を預かるんですう?」
「基礎の飛行訓練を施すため……けど、要は竜の休暇です。竜にもお休みや気晴らしが必要やの。ストレスが溜まると、竜は飛ばれないんです」
 いたいけな少女の手前、口にしなかったが、それで済まない事件が多発している。
 飛べなくなる、病気になるで、安楽死。そのくせ、牧場に新しい竜を買い付けに来る。
 発覚した際、牧場主がまさかり担いで畜主を数キロも追いかけた出来事は、記憶に新しい。多分、彼は畜主を殺す気で臨んだのだと思う。仕留めそこねて帰って来た悪鬼の如し形相が、彼の心中を如実に語っていた。
「あ……それで、その。バルバルさんはともかく、ミウシャさんは、不用意に竜に近づかれんようお願いします。
 とくに、カプー」
 人好きのカプーは、初見の人々を前に興奮気味で、大人しく肩に収まっていない。
 ルノーシャンは、カプーの笑っているような口元を覆い、「撫でてやって」とミウシャを促した。
 少女の手にも収まる、その小さな頭を構われると、カプーはつぶらな黒い瞳で手の主を見上げ、短く肥えた手を無意味に動かす。構う方も構われる方も、お互いに感激しているらしい。微笑ましいことだ。
「この子が構われとうて、寄って来おるかもしれないけれど、僕か、バルバルさんの居てない所で触らんといてね。かわええけど、毒を吐きおるんです」
「バルバルさんも、竜が触れるんですう? いいなあ。余裕のあるとき、ミウにも竜のこと教えてくださいなぁ。ミウも竜たちと遊びたいですう」
 屈託ない物言いに、覆面男は照れくさげに頷いた。案外、純情なのだろうか。
「今日は後で雌竜が来はるから、二人とも、その時は店内におらんといて。命に関わるから」
 フェザーや、預かりもののエルダーたちは、去勢手術を受けた雄竜である。雄竜は発情期になると、手に負えなくなるのだ。
 そこで、軍隊などでは、発情期にも比較的扱いやすい雌竜が戦闘訓練を受けて用いられた。
 雌竜は本来、専門の調教師でなければ扱う資格がないのだが、今回、負傷した発情期の雌竜ということと、知り合いの愛竜ということで、特別に預かることになったのだ。
「あ……、これで、大体の説明はしまいです。僕は、開店準備をせないと。
 お二人とも、御用事やらは?」
「買出しの途中ですう。その、軍竜が来るのもありますう、ミウは日暮れか、明日また改めて来ようかとう」
 雌竜と聞いただけのはずなのに、軍竜という単語がさらりと少女の口から飛び出たことに、引っ掛かりを覚える。一般人には馴染みないはずなのに。
「バルバルさんは、良かったら竜舎のほう……」
 と、ショーウインドウを拳でノックする、乱暴な音が響いた。
 まさか、また求人の、と椅子から腰を上げかけたところ、ミウシャが身を寄せて来る。
「気をつけてくださあい。あれ、この近辺が縄張りのギャングですう」
 ギャング! ルノーシャンは青ざめた。
 店の前に、いかにも……な雰囲気が匂いたつ、ロングコートに身を包んだ無骨な男が二人もいる。
 不穏な空気を察したカプーが、喉を膨らました。毒を吐く準備をしているのだ。
 ルノーシャンはこのマシュマロドラゴンを、カウンター上の専用檻に放り込んだ。もし、カプーが人に毒を吐けば、危険な獣として国に処分されてしまう。
「二人とも、裏から逃げて」
 だが、求職者たちは顔色ひとつ変えない。立ち上がろうともしない。
 彼らに不気味なものを覚えつつ、今のところ、辛抱強く待ってくださるギャングを招き入れる。さもなければ、彼らは硝子を割るか、裏の竜舎から侵入しかねない。預かりものの竜を刺激することは避けたかった。
 扉が開いた途端、腕を引かれて両脇を固められた。
 うなじに、何か当たる。冷たい、鉄の筒の、口。
 いくら何でも、ここまで無体をされるとは。かち。音が、リアルに鼓膜をなぞる。
 見えないが、横の男が引き金を引いたら、どうなる。どうなる。
 恐怖で視界が滲んだ。
「強いのは目、だけか」
 顎の細い方の男が、せせら笑った。
「開店おめでとう。誰に許可を得た?」
「国です……」
 自分の金で不動産屋から物件を買い、領主館で正しく許可を得ている。何もかもが合法だ。
 だが、その理屈は彼らに通用しないらしい。
「この一帯は、我々が仕切っている」
 宇宙人のコロニーか。
 そう言ってやれたら、少しは気も晴れたのだろうが、より強く銃口を押し付けられ、ひゅっと息を呑む。
「見れば、女の子もいるな」
「彼女は………たまたま居てはる、お客様です」
 身の危険より冷や汗した。正式な従業員ですらないミウシャを危険に晒せない。
「僕なら、しとうようにして、ええから。あのひとびとは、無関係です」
「泣いてそれだけ言えれば、立派なもんだ。
 君ひとり、闇に葬って競売で飛ばすくらいは出来る。肝臓が売れるか、被験に使われるか……事によれば、君自身を欲しがる物好きがいるかもしれん。従順そうで、よく見れば顔かたちも良い」
 彼らの意図が、ルノーシャンには分からなかった。突然来て、殺すだの売るだの脅す。そこには、何某かの理由があるはず。
 その答えを示してくれたのが、彼にとって意外な人物だった。
「ちょっと。カタギにシャバい脅しかけんじゃないですう。いちゃもんつけて、ショバ代を巻き上げようってハラが見え見えなんですよう」
 太い方の男が、ルノーシャンからして後ろへ、腕を上げた気配がある。
「ミウシャさ……逃げて」
「撃ちゃあいいんですう」
 良かぁない。どうしてそんなに、危ない人びとを焚きつけるのか。
 ミウシャが鼻で哂う声。
「やくざ者が女の子を傷つければ、居合わせた人は合法的に現行犯を殺せますう。そうでなくとも、ここは竜屋だよう」
 カプーが、彼女に同意したかは知れないが、「ぐおぉ……」と低く啼いた。相当、頭にきている声だ。
「でも、ミウシャさん、万が一……」
「兄ちゃんは黙ってな」
「あ……」
 銃口をあんまり強く押し込まれるもので、こめかみが凹みそうだ。
「随分、強気なお嬢さんで。人質がどうなっても?」
「そんな脅しに屈しません。
 こちとら、ウォッカより鉄火に生きてンですう―――ウルヘイルのお膝元で怯えて暮らす、虚勢ばっか上手なヘタレ男が、テクト女を舐めんじゃないですよ」
 ミウシャさん、怖い。
 砂糖菓子のような容姿と、上がり気味の緩い口調に騙されがちなのが、テクト女の気の強さだった。忘れていた、すっかり。
 しかし、彼女の啖呵が事態を好転させた訳ではない。ルノーシャンには未だ、銃が突きつけられているのだから。
 カプーの唸り声以外の、音が消えた。
 激しい睨み合いで、場が張り詰める。背が、痛い……
 遠くで、何かが啼いた。
 ルノーシャンは、はっと顔を上げ、銃口を向ける男を、目いっぱい外へ突き飛ばした。
「貴様!」
 太い方が、裏返った怒声を浴びせてくるが、構わず走った。
 竜房の出口へ。
 思った通り、庭の上空で二頭の黒竜が互いを牽制しながら、こちらへ向かって来る―――あまり、状況は良くないらしい。
 二頭のうち、後方の竜が、真っ直ぐ竜房めがけて突っ込んできた。
「何だぁああ!!」
 追ってきたらしい、ギャングが大げさに絶叫する。
 ルノーシャンは、留め金をかけないベルトを腰から引き抜き、大口を開けて叫ぶ雌竜の横っ面を張り倒した。
「ヴォっ!?」
 彼女が面食らう隙へ、もう一度ベルトを飛ばす。今度は角を絡める。
 混乱して喚く彼女の角を、ぐっと引き寄せ、首を抱いた。
「そないに、怒りはらないの。ご主人さまに、嫌われてまうよ」
 前足にやられないよう、注意を払いながら、荒く首を撫でさすり続ける。
 数分もして、ようやくワガママ娘が鼻を鳴らしながら、落ち着いた。
「流石ですね」
 ワガママ娘を誘導していた竜のライダーが、着陸する。
「話に伺ったとおりで。軍人でも、愛竜に敵いやしません」
「慣れですやの。あ……えろう、ご苦労さまです」
「ご苦労さまです!」
 ライダーは、鋭い動作で敬礼した。胸の前で手を止める。いつ見ても、格好いいと思う。
「レンちゃ……レニアスさんに、よろしゅうお伝えください」
「了解しました」
 灰褐色の軍服に身を包む彼は、愛竜に再び跨り、颯爽と大空へ抜けていった。
 さて、と。今やすっかり、ルノーシャンの肩に懐いているワガママ娘の喉をくすぐる。
「レナちゃん、言うたね。僕、君のご主人様と、友達なんやの。しばらく、よろしゅうね」
「ヴァ、ウァ」
 照れているようだ。軍では、厳しく躾けられていたのだろう。こんな優しい扱いに、慣れないのかもしれない。
 彼女を竜房へ案内しようと、振り返ると。
 強面を崩し、阿呆のように口を空けている、ギャング二人に気づく。
「あ……このままでよければ、お話やら、お伺いしますけど……?」
「ひっ」
 彼らは、恥も外聞もなく震え上がって、店の入り口から尻尾を巻いて逃げて行く。
 豹変した彼らの態度に、ルノーシャンは店内で立ちすくむ、ミウシャとバルバルに向かって、首を傾げた。
「あの人びと、どないしはったんでしょねえ?」
 二人からの返事はなく、檻の中のカプーがご機嫌に「かぺ」と啼いた。


 気温は十五度くらいであろうか。暖かな日和である。
 カプーの白く長い、ふにゃふにゃの腹が、首やら顔やらにへばりついている。
「カプー。起きて。おきるのーっ」
 こちらの髪をひと房つかみ、尻尾を夢見がちに揺らすカプーの、首を揉む。柔らかすぎて、指が埋まりそうだ。
 マシュマロドラゴンは起きるどころか、主人の指を捕え、口に含む。卵生まれのくせに、吸うんじゃない。
 まったく、カプーの寝穢さときたら。
 ルノーシャンはカプーを首に巻いたまま、備付けの洗面所で顔を洗い、髪をとかす。やりにくくて仕方ない。
 真直ぐした髪を一つに束ね、前へ垂らす。
 竜は人間を体格や髪の色で識別する場合が多い。大きな竜は人の頭を見下ろせるが、カプーのような小さい種には、この髪形が良いらしい。
 気づくと、カプーが目を覚ましている。
「人の耳朶で遊ぶの、あかんー。もー、起きおったなら降りて。着替えられんでしょ」
「カーッペーッ」
 降ろそうとしたら、威嚇された。甘やかし過ぎだ……
 竜に屈せば、竜屋は務まらない。生意気カプーをベッドへ放り投げ、ブラウスと、ベージュのトラウザースの上から、エプロンを被る。
 低いチェストの上に置いた、兄と牧場長と写った念写真を眺め。
 その横にある、天使の像……アルヴァル神に祈りを捧げる。
「天のご加護を」
 そして、寝室を出た。
 フェザーと、預かりものの竜たちに餌をやらねば。
 種にもよるが、基本的に、竜に肉は与えない。彼らは雑食である。キャベツを食べてくれれば一番良いのだが、例のワガママ娘が見向きもしない。
 林檎など、果物は喜ぶが……あんなものを大量に摂取したら、太る。肥満した戦闘竜など、減量しないボクサーのようなものだ。
 悩みながら階段を下りてゆくと、靴音がした。
「あ……バルバルさん」
 重そうな野菜の籠を軽々と担ぎ、竜房へ運ぶマスク男の姿。
 見れば、レナが果物まじりの千切ったキャベツ(大量なので、手間だったはずだ)を食べている。
「レナにも食べさせてくれはったんですか」
 繁殖期の戦闘竜、それも我侭なレナに!
 やはり、バルバルは只者ではない。
「えろう、助かります」
 マスクの奥の太い唇が、微笑んだ。
 どこか違和感を覚え、じっと見上げると、彼はふいと顔を背けてしまう。
 人をじろじろ見るなんて、不躾だったろうか。思わず顔を赤らめる。
「おっはようごっざいまあす!」
 勝手口の先から、明るい声が響く。
(あれ、バルバルさん、そういえばどこから入って来はったのかな)
 首を傾げつつも鍵を開けて、ミウシャを招きいれると、サンタガールがフードを外した。
「今日もぐんぐんお仕事しちゃいますう。開店はじめに必要そうなこと、お母さんに聞いてきましたあ。
 今日は専門品のご予約のお客様がいらっしゃるのと、他にご予定は?」
「競竜の飛行基礎訓練、引き受けたの。前金を少し貰うててね、それが……」
 ミウシャをカウンター奥のデスクへ招き寄せる。
 と、彼女は声を上げた。
「店長さん、優勝ですう?」
 しまった。デスクの上に、昨日届いた雑誌を出しっぱなしだった。表紙には、ルノーシャンの名が大きく記されている……
 雑誌にある通り、少し前に訓練士の大会でカプーと優勝した。その賞金があったから、店を出す決心をしたのだ。
 ミウシャは手袋をとって、嬉々と雑誌の頁をめくる。
 渋い顔をされた。
「店長さん……どうして、念写真のとこ、目に黒い線入ってるんですう? これじゃあ、被疑者みたいですう」
「だ、だ、だって。目が怖いて、よう言われるから」
 写真だって、力の限りお断りしたのだ。それを、牧場長が無理に。
「ミウは、店長さん、いい面構えだと思いますう」
 その言い草。[いい面構え]なんて言葉を使う若い娘など、はじめて見た。
「美人さんですう。バルバルさんもそう思いませんかあ?」
「み、ミウちゃ……そない、からかわんといて」
 出会い頭、女子供にぎょっとされる(もしくは泣かれる)ことに慣れたルノーシャンは、女の子に初めて褒められたもので、恥ずかしさに耐えられない。頭から湯気が出そうだ。
 そうこう、じゃれている内に、庭先が騒がしくなる。
 出迎えると、白蛇を思わせるスポーティなフェザーが三頭、引率のショートエルダーが一頭、整列して待機していた。
「えろう、ご苦労さまです」
 引率のライダーは、緑の帽子を取り(……頭が寒そうな人だ)やおら深々、頭を下げる。つられて、深く返礼した。
「あ……競竜お預かりの件ですよね」
「はい、でございます。おら……わっ、わたくしめは、いち飼育係でございます。
 竜は、右からチョコベリー号、リコリスキャンディー号、ヘーゼルナッツバー号でございますです」
「そ……そないに緊張なさらんといてください」
 飼育係がそんな調子なもので、竜まで強張っている。
 それがまた、おかしいと言うか、ほほえましい。竜たちは、彼のことが好きなのだ。
 竜の名前の方は……どうやら、菓子業者がスポンサーらしい。
「この子らの、最近一ヶ月のスケジュール表、お願いします」
 渡された書類に目を通す。その間、カプーが芝生の上を転げまわって、フェザーらの注意を引いていた。こういう分野にかけては、実に巧みである。
「このごろ、ヘーゼル号の成績が下がっておりますのです。レースさえ、嫌がることが多くて……」
 憂いげに、三頭の中で小柄なフェザーを見やる飼育係。
 ルノーシャンは渋面した。
「このスケジュールでは、竜は飛ばれません」
「こき使ってはいませんですよ。ちゃんと、休みだって……」
「竜の疲労は、寝れば回復するて訳でもないんです。
 もし、そう……次のレースでこの子らの成績が上がらはったら、ときおり僕にこの子ら預からせてください」
 飼育係にしても仕方のない契約話だが、成績上昇と知って、誘いを蹴るオーナーはいないものだ。
 彼は去り際にもお辞儀し、ショートエルダーと空へ行った。
 一度、竜たちを休ませようかと考えていたが、どうも彼らはやる気満々のご様子。
 ぴしりと鼻頭を上向きに、命令を待っている。それこそ、「いい面構え」だった。
 彼らの気を削ぐのは、上策ではなかろう。ルノーシャンは挨拶もそこそこに、冷えた唇に樫の竜笛を咥える。
 竜は、人間ほどではないが、魔導を扱える。 
 ライダーを風圧や寒気から保護する結界や、加速を補助する術など。
 それらを指導するのも、竜屋の務めである。基礎の反復を怠ると、事故が起こる。競翔竜のような、スピードを重視した竜なら尚のこと、頭に血が上った時のため、しっかり教え込まねばならない。
 教え方としては、カプーを使うのが、竜にはわかりやすい。人間が手本を示しても、体の構造が違うので、理解を得にくいのだ。
 ぷうっと息を吸い込んだカプー、普段は親指程度の羽を風船のように膨らませて、巨体のフェザーたちの前へ浮かび上がる。
 ルノーシャンは竜笛を吹く。音は無い。竜の神経にだけ、響くのだ。
 合図を受けたカプーは、すぐさま己と、その周囲に魔力の薄い膜を張り巡らせた。フェザーたちは、一歩、二歩も遅れて、模倣する……合図自体は、「お手」のように常識化したものなので、やはり少し、反復がなっていないらしい。
 もし、レースで事故を起こした場合、咄嗟の結界が竜とジョッキーの命を左右する。
 この日の魔導訓練を、すべて結界に費やすことに決め、何百回も同じ術の展開を強いた。よくぞ、へこたれずについてきたものだ。
 カプーなど、とうの昔に飽きて芝生に転がってる。我が子ながら、駄目な子……
 タフなフェザーたちも、流石に精神的疲労が見える。
 ルノーシャンはにっこり微笑みかけた。
「よう、頑張ったね。それじゃあ、飛ぼう」
 飛ぶ、と。その単語を聞くなり、ヘーゼルが「ヴォフ!」と啼いた。発音こそ悪いが、「飛ぶ」と言っているのだ。小鳥などと同じで、彼らは多少、言葉を話す。
「ちょっと、待っとってね」
 カプーをお守に置いて、ルノーシャンは店へ戻った。エプロンのままでは乗竜できない。
 デスクで、伝票と格闘していたミウシャが、顔を上げた。
「お帰りですう。おしまいですかあ?」
「ううん、まだやの。あ……ミウちゃん、竜に乗りはる?」
「いいんですうっ!?」
 どんぐりのような目を、それはもう輝かせながら、詰め寄ってくるミウシャ。
 紺色の乗馬用背広を羽織り、店主は彼女を手招きした。こういう、乗竜経験のない人を、大空へ飛ばしてやるのは楽しい。
「あのあの、ミウでもほんとに飛べますう?」
「乗馬ができはるんなら、大丈夫。ミウちゃんは竜を怖がらないし」
 店の留守は、バルバルに任せた。彼が居るから、安心して外出ができる。
 庭では、先ほどの場所で、竜たちが首をそろえ、談話する姿。と言っても、カプーが一方的に発言して、フェザー三頭がそれに耳を傾けているのだが。
「カプーちゃん、お話ですう?」
「カプーはお喋りやの。兄貴風吹かせとるかもしれんね」
 と、主人の登場に気づいたカプーが、こちらを横目で見ながら羽を素早くはためかせた。フェザーがそれを、忍び笑う。
「陰口でも叩いとったの?」
 カプーの首を掴めば、わざとらしく悲鳴を上げ、丸っこい手足をばたつかせる。
「わあ……人間、みたいですう……」
 思いがけず多彩な、竜の感性に驚いたらしい。ミウシャが、目の前の光景に目を丸くしている。
「白い竜は、もっとクールなのかと思ってましたあ」
 ルノーシャンは苦笑した。
「フェザーは確かに、冷静な竜種だけど、僕のフェザーが格別ブアイソ過ぎるんやの」
 お前など、自分の主人ではないと。
 失踪した兄に代わって世話をして、何年も経過するのに、あのフェザーはルノーシャンを決して認めない。
(僕も君も、お兄さんに捨てられたんにな)
 ルノーシャンは竜笛を鳴らした。
 フェザーが横一列に整列し、カプーが羽を膨らませる。
「チョコ。この子、よろしうね」
 ミウシャの背を押し、フェザーにしては大柄なチョコベリー号に託す。ルノーシャンの見立てでは、彼が一番、分別がある。
「ミウちゃん。鞍の背に腰を固定して。ベルトがあるから」
 彼女の足を固定し……下着を見ないようにしながら……チョコベリー号の機嫌を伺う。問題無い。
 ルノーシャンは、成績不良だと言うヘーゼルに乗ることにした。
 片手で手綱を握り、右手をやや下方の横へ、伸ばす。
 竜の呼吸を合わせるために、竜笛で短間隔に吹きながら、それと同じリズムで右手首を揺らす。ヘーゼルには、騎手の右手は見えないものの、呼吸が笛と―――ルノーシャンと同調する。
 彼らの神経が研ぎ澄まされ、高揚してゆく。空へ。その渇望と共に、深みに嵌る。
 落とした右手で、天を指した。
 竜たちが舞い上がる。
 素人が居るので、高く飛ぶつもりはなかった。それに、競翔竜フェザーの速度にカプーの翼は追いつかない。速度も緩めに。
 高度にしてせいぜい五十メートル程度。店の屋根を越え、巨大な湖を渡る。
 風を切って滑空しながら、ヘーゼルが歓喜の声を上げた。競翔竜の彼にとって、ペースの悪い飛行だろうが、久々に飛んだとばかりに羽を広げ、空を満喫している。
 湖を横切り、森林を通った。鳥の群れが、巨大な生物に驚いて喚くが、フェザーとカプーはそれさえ笑う。
 ルノーシャンは、彼らがハイになり過ぎないよう、笛で指示を飛ばして彼らの意識を繋ぎとめた。
 手綱の右を引き、右手を左へ。フェザーはしなやかな体を捻り、左翼を下、右翼を上のやや斜めに大幅な旋回。カプーが、フェザーたちの目安に内側を飛ぶ。
 ちらと見えたが、チョコに乗ったミウシャがうまくバランスを取りながら、竜の背を楽しんでいた。彼女、いい騎手になるやも。
 大自然のコースから、居住区へ。長官の居住である、石の城が真下に見える―――ちょうど、並み居る強国を唸らせる師団、ウルヘイルが詰めているらしい。階級によって色の違う、グレイッシュ・トーンの軍服団体が見える。
 もう一度、旋回し、真っ直ぐ店へ向かう。
 庭上で右手を上げ、それをゆっくり落とす。竜が翼をすぼめた。
 緩やかに下降し、軟着陸。
 ルノーシャンは手早く、固定具を外して下竜し、ミウシャを乗せたチョコの元へ行く。
「ひゃあぁ……」
 手を借りて着地したミウシャが、へたへたと芝生に座り込んだ。
「腰が抜けついでに、魂まで抜けちゃった気分ですう」
 そうそう、そんな気分だった!
 初めて、兄にあのフェザーに乗せて貰った日を、昨日のように思い出しながら、ミウシャに手を差し伸べる。竜の張る結界は、上空の冷気からも幾らか守ってくれるが、握ったミウシャの手はかなり冷えていた。
 ルノーシャンはミウシャを店に置いて、庭へ戻った。氷の入ったバケツを抱えて。
 騎手は飛行で冷えるが、竜はその逆で、熱がこもる。興奮したなら尚更だ。
 すっきりした面持ちの彼らに、バケツを差し出した。
「好きなの、食べてええよ」
 星や、花の形に固めた、色とりどりの氷。薄く果物の味がついている。
 チョコは「キャア!」と歓声を上げて、奪い取るように氷を取る。リコリスも似たような調子だ。
 残るヘーゼルはと言うと、嬉しさが極まって「迷っちゃう!」といわんばかりに尻尾で地を叩き、嘶く。さんざん悩んだ末、王冠型の氷を選んだ。
 これだけ喜んで貰えれば、竜屋冥利に尽きるというものだ。
「ほら、カプーも」
 飛行後のおやつは、カプーだって嬉しい癖に、澄ました顔で適当なものを選ぶ。そんなに兄貴風吹かせたいのか、お前は。
 と、竜房の出口から、バルバルの姿が見えた。
 現れただけでなく、焦った様子で駆けて来る。
「あ……どないしはったの?」
「……! ………」
 ルノーシャンの肩を掴んで店を指し、フェザーたちの傍へ寄る、バルバル。
 ここは自分に任せて、店に行けと言っている、のだろうか。
 ルノーシャンはカプーを小脇に抱えて店へ急いだ。
「店長さん! 大変ですうーっ」
 気丈なミウシャの、半泣き声が店主を出迎える。
 店内に、身なりの良い老人が居た。彼も切羽詰まった顔色である。
 カウンターに乗せられた、布包みの中に、手のひらに収まりそうな、小さな小さなサファイア・ドラゴンの幼竜がぐったり横たわっていた。
「ミウちゃん、ぬるま湯用意して!」
「さっき、バルバルさんがお鍋をストーブにかけて行きましたあ」
 見れば、卓上に肌理の細かいナプキンがある。これも、バルバルが置いていってくれたのだろう。
 ルノーシャンは老人に挨拶もせず、椅子に腰かけてナプキンを湯に浸し、幼竜に触れた。
 衰弱しきっている。竜医に連れてゆくのが一番だが、幼竜の体力が持たない。
「ミウちゃん……林檎を摩り下ろして、人肌よりぬるめに暖めて。そこの、二番目の棚にある粉を、それに混ぜて、保温しとって。お願い」
「はい、はぁい」
 何度もナプキンをぬるま湯で暖めながら、幼竜にショックを与えないよう、優しく全身をマッサージする。
 続けると、薄く幼竜が目を開けた。
「……ゥ、ぴャ」
 ルノーシャンは、慎重に包み布ごと幼竜を抱き上げ、自分の首筋に寄せる。竜の母親は翼と、首で我が子を守る。幼竜にとって一番、安心できる場所なのだ。
 変わらず濡れ布巾で刺激を与えながら、ルノーシャンは幼竜の顔や首、腹を舐めてやる。
 事情は知らないが、思うに母竜が育児を放棄したのだろう。ただ病気になったのなら、真っ直ぐ竜医の元へ向かうだろうから。
 人間の赤子は自然界で最も弱いとされるが、サファイアはその上を行くと思われる。彼らは愛がなければ生きられない。数ある竜種の中で、最も人に懐き、最も手のかかる種がサファイアだ。
 舐めてやる、というマザリングを模倣して、庇護者がいることを分からせれば……
 もっとも、あんまり人間の唾液が付着するのはよくないので、ナプキンで拭き取ってゆく。湯は頻繁に換えてもらった。
 栄養剤入りすり林檎を舌先に含み、幼竜に与える。ほんの僅かだが、食べてくれた。
 例の飼育係が、競竜フェザーを引き取ったのだろう。バルバルが、戻ってきた。彼はあれこれ、ルノーシャンが必要とする物を、指示せずとも用意してくれた。
 何時間したろう。終業時間が過ぎても付き添うミウシャが、ぐったりした頃。
「ぴぁ……ぴぁあう」
 呻き声ではなく、確かに力を持った声で幼竜が啼き、人間の爪ほどの手で、ルノーシャンの頬に拙く触れた。
 深く長い溜息をつき。椅子の背もたれに沈み込む。
「あ、顎が……」
 筋肉痛というか、リンパ腺あたりが腫れそうだ。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
 幼竜を連れ込んだ老人が、しきりに礼を言う。
「わたくしは、伯爵さまにお仕えする者でございます」
 そうだろうと思った。並大抵の資金や設備で、通好みのサファイアを飼育することはできない。それも、子供を産んだということは、雌のサファイアである。
「伯爵さまは、えろう竜がお好きな方なんですね」
「その通りで……この子の母竜は、伯爵夫人とお嬢様が大層、可愛がっていらっしゃいまして、この子が産まれることを、それはそれは楽しみに」
 ルノーシャンはそれを聞いて、言葉に詰まった。
 しかし、幼竜の命を優先させるなら、言わねばなるまい。
「幼竜、それもサファイアの幼竜を、母竜なしに育てる言うことは、難しいです。
 お客さま。この子を半年ほど、預からせて頂けないでしょうか」
 彼の一存で判断出来なかろうが、何しろ、その難しさを身を持って思い知ったばかりなので、とりあえずは頷き、老人は帰っていった。
 結構な額の謝礼金を置いて。
 しかし、それに反応するには、三人は……カプーもである。疲弊しきっていた。
 ミウシャは「ぴゃう、ぴゃう」と店主に懐く幼竜をやる瀬ない目で眺め、しみじみ呟く。
「竜屋さんって、大変ですねえ!」
 苦笑するしかなかった。

「んぴ、んぴゃっ」
 カウンターで事務処理をこなしていたミウシャは、至近距離から歌声が聞こえて顔を上げた。
「あぁ~っ、サファイアちゃん……」
 いつの間にやって来たのか、カウンターの上で、尾を振り手を振り踊る幼竜。
 ここへ担ぎ込まれた日には、ぐにゃぐにゃとしていて、まるで生まれたての子犬のようだったのに、今や鱗も体もしっかりと自立している。
「店長さあん、サファイアちゃん、ここに居ますう。
 ……店長さん?」
 振り返ったが、竜房のバルバルと目が合うだけ。
 マスク男は口元に指を当て、預かりもののショートエルダーの足元を指す。
 尋ね者の店主は、苦悶の表情で眠っていた。竜と一緒に。
 代わりにマシュマロドラゴンが遣いに来て、その胴長の体でサファイアを囲い込む。
「カプーちゃんも、おつとめ大変ですう」
「かぺーっ」
 まったくですよ。そう言わんばかりである。
 どうも、店主のルノーシャンは、サファイアの赤ん坊のせいで夜も眠れない生活が続いているらしく、このところ目の下の暗い隈が三割増しである。
 主と寝床を同じにしている筈の、カプーは元気そうだが……このマシュマロドラゴン、結構に根性が太いらしいので、幼竜が夜泣きしようが、構わず寝ている節がある。
 店長さんも大変ね、と同情しつつ、ミウシャは店長の手腕に疑問を覚えていた。
 いや、調教師としては一流なのだろう。来る客来る客が彼を褒め称えてゆくし、契約を取る機会を逃さないので、商売下手ということもない。
 しかし、だ。果たして彼は、カプーやバルバルの助けなく、店を切り回せるのだろうか。
(何か、放っておいたら三日で死んじゃいそうですう)
 対人免疫もないし、人が好すぎるし、すぐ泣くし。
 決して、店主のそういうところが嫌いな訳ではない。目が離せない、困った人だなあ、とは思うけれど。
 馬の嘶きが外で聞こえた。
 来客のために、散らばった伝票をファイルに押し込め、引き出しにしまう。
 笑いかけようとしたミウシャは、しかし、凍りついた。
(白のっ……軍服)
 ミウシャには、物騒な地域で女手ひとつ、商売し、ミウシャを含む三人兄弟を育て上げた肝ッ玉母さんがいる。
 だから、チンピラ如きを畏れはしないのだが。
 踵を鳴らし、ずいずいと歩み寄る若い軍人に、ミウシャは及び腰になった。
 軍人の客は、庭のほうから飛竜で訪問するのがセオリーだ。ミウシャが勤めはじめて一ヶ月、そうでなかった例はない。
 グレイッシュトーンのカラーが階層を表すウルヘイル師団において、純白の軍服は一握りである。
 彼らは、白の悪魔。そう呼ばれる人種だ。
 白の軍服によく映える、豊かな銀色の髪を揺らし、重そうな唇を開いた。
「店主は在宅か」
「あ、あ……えぇとう」
 純粋な客なのか、はたまた物騒な用件なのか。
 返答次第では、ルノーシャンを逃さなければ。事によっては、本当に殺される。白い悪魔が来た、ということは……
「どないしたの?」
 ミウシャの頭が漂白しつつある最中、のんきな声が背後から。
 なぜ、こんな時に!
 血の気が引いた。本当に「ざー」という音がするんだと、妙な事実に感心しながら。
「あ……レンちゃん。居てたの?」
 白い悪魔の顔が歪んだ。
 真っ赤になって。
「おまっ……人前でそないに呼ぶな!」
 唐突に、訛りが出た。店長と同じアクセントである。
「レンちゃん、見て見てェ。サファイアのあかんぼやの。かわええでしょぉ」
「人の話聞かんかい! レンちゃん呼ぶな!!」
「へ……? 急にどないしはったの?」
 寝ぼけ眼で、サファイアを白い悪魔の頬に寄せようとする、店主。
 それを押しのけながら、むきになって……子供のように怒る、白い悪魔。
 ミウシャには、何が何だか分からなかった。
「急じゃない! こンの腐れ脳みそ、レンちゃん呼ぶな何度何度言うてる!」
「何で? レンちゃんは、レンちゃんでしょ。変えとうない」
「アホ! こちとら軍人だ!」
「そない……すぐどなる…………」
「そう言うお前はすぐ泣くっ。ええ年こいてっ」
 この頃になると、第三者のミウシャにも、事情が呑みこめてきた。
 おそらく、故郷が同じの幼馴染なのだ。
 そういえば、預かりものの戦闘竜のレナ。あれは、ウルヘイルに所属する、友人からの依頼だと聞いたことがあるような。
 身構えて、損をした。ミウシャは椅子に、へたり込む。
「店長さん……そういえば何歳なんですう?」
 ずいぶん若いように見えるが、腕も良いようだし、一城の主として、二十代半ば、いや三十代かもしれない、と見ていた。
 ところが店長、照れくさそうにしながら、「十八です」と答えなさる。
 衝撃だった。
「あたしと二歳しか違わないんですかあ!?」
「あ……そないに、老けてるよう見えはる?」
「ううん、凄く童顔の三十歳かと思ってましたよう」
「……さんじゅ………っ」
 店主のほうも、ことのほかショックを受けたらしい。
 幼馴染に怒鳴られて、一時うるんだ鋭い三白眼が揺れる。
「おい……女の子の前でまで、泣きおるな」
 白い悪魔ことレンちゃんは、落ち着かない素振りで、友人を宥めようとしている。居たたまれないと言うよりは、泣かれて本当に困っているらしい。
 何かこう、入り込めない雰囲気が漂っており、
「面白くなーいですう」
「どないしたの?」
 目じりを拭いながら、店長の注意がこちらに向いた。
「ちょっと面白くなったですう」
「そう……?」
 不可解そうだが、何やらにこにこしはじめた。泣いて笑って、忙しい人である。
「レンちゃん。レナは元気にしておる。ちょっと甘やかし過ぎだよ」
「戦闘竜シバキ倒せる生身の人間なんぞ、お前くらいのもんだ」
「せっかく来て貰うたんだけど……僕、これから出かけるんやの」
 そんな予定は聞いていない。ミウシャが抗議すると、店主は眉を下げた。
「言うてなかったっけ……ごめんね。僕、これからお見合いやの」
「おおお、おおっお見合い!?」
「うんー」
 浮かれ気味に、エプロンを脱ぐ。
「家事とか、身の回りのことしてくれはる人が居てないと、大変で」
「お前それ、家政婦が欲しいだけと違うか?」
「違うのー。一生ものの連れ合いが欲しいの」
 レンちゃんは、非常に苦々しい顔をした。
「女だったら、嫁に貰うたるんだが」
 それは、どういう意味で。
 これには、店主が渋面した。
「あかんよ。仮に僕が女かて、レンちゃんはもっと素敵な人と結婚するんやの」
 それはそれで、どういう意味。
「じゃあ、ミウがお嫁さんになってあげますう」
「そら、ええわ」
 レンが手を叩いた。
「この子、しっかりしとるわ。見ればよう分かる。訳の分からん女と、見合いでくっつくよりずっとええ」
「アホなこと言わんといて。こないに可愛い、賢い女の子やら、もっとええ人が居てるに決まってるでしょ!」
 半ば本気で怒られる。
 ミウシャは、引っかかるものを覚えた。
「じゃあ、店長さん。今から、どんな女の人とお見合いするつもりなんですう?」
「アリッサさん、言うんやの。お客様にどないです~ってすすめられて」
 見合いの資料を渡され、ミウシャとレンとで覗き込む。
(あ……レンさんカッコいい……)
 至近距離の顔にどぎまぎした。店長を人形とすれば、レンは氷の彫像のように研いだ美しさがあった。彼らの故郷には、美人が多いのだろうか。
 レンに見惚れてから、資料の念写真に目を落とす。
 唸った。差が。差が苦しい。神様は不公平だ。
 美醜に関してはさて置き、それよりも気になるのが、見合い相手のふくよかさである。二百ポンド(約九十キロ)……とは言いすぎだろうか。
「アリッサさんも、容姿にコンプレックスあるて」
「そないな理由で結婚する言うてるんか!?」
「相手の人にも失礼だと思いますう」
「それは単に知り合うきっかけ。あとは、会うてみて性格の好い人なら、何も」
 と、彼は視線を逸らして、微笑んだ。
「カプーとあかんぼ、寝てはる」
 丸くなったカプーの中に埋もれるようにして、小さな手でカプーの羽を握り締め、サファイアが。店主の言うとおり、二頭とも寝息をたてている。
「こ、こりわ何とも……かっかっわいぃいい……ふんがぁあ」
 婦女子には、刺激の強すぎる愛らしさだった。萌え殺される。
 ミウシャが身悶えている内に、レンが「あっ」と声を上げた。
「出て行きおったわ、あいつ」
 卑怯な! ミウシャは立ち上がった。
「レンさん! 追いませんかあ!? ミウは心配ですう」
「着替えてくるわ。どうせ非番やら、こない格好じゃ出歩けん」
 確かに[ウルヘイルの白い悪魔]が、街中で尾行する図は頂けない。
 勝手知ったる他人の家、と二階へ上がり、五分もせず戻ったレンは、目立つ髪をニット帽に押し込めていた。
 店長のものにしては大きすぎる、ロングネックの洒落た服。
「レンさん、店長さんの家に服を置いてるんですう……?」
「私服で出掛ける時は、大体、あいつと出る。寮に置くより、こっちに置いた方が都合ええからな」
 寮ともなると、不自由が多いのだろう。
「バルバルさあん、出かけてきますう!」
 竜房へ声を掛けると、マスクの大男が力強く頷いた。彼も一連の事情を知って、同意してくれたような態度である。
「変わった従業員だな」
「バルバルさん、とっても働き者の善い人ですう」
 力持ちで、真面目で、竜の扱いに長けている。
 給料日前には、バルバルの給料を多めに計算してくれと、店長から耳打ちされた程だ。
「気難し屋のフェザーちゃんも、バルバルさんが大好きなんですう」
「……? あの、やたら頑固な蛇竜が?」
 レンは、嫌悪するような表情を浮かべた。
 白い悪魔の顔だった。
 しかし、それも一瞬のことで、幼馴染の去った方へ歩き出す。あまり、女の歩幅を考慮しない人のようだ。ミウシャは、健脚なので構わないけれど。
 湖のほとりを沿って、シアンリハの市街地へ向かう。
 門のようになった或る住居の渡り廊下をくぐり抜け、寂しい石の路地を進む。
 レンは、道行く女性を捕まえた。
「失礼。人を探しているのだが、暗い灰の髪をした、目つきの悪い若い男が来なかったろうか」
「あ、ええ……」
 女としては、大分とうの立った年齢のその人物、うっとり年下の男を眺め、上の空で肯いた。
「ブルーのスーツの人ですう? そこですれ違ったわ。市場への道で」
 レンは、後を引かぬよう、礼を言って先を急いだ。
「あいつ探しとる時は、すぐ見つかるからええわ」
 見失っても、ああして人に聞けば、居場所が分かってしまうそうな。
「分かりやすうて、すぐ泣いて、手がかかって……しょうのない奴」
「好きなんですう?」
 聞いてみると、鼻で笑い飛ばされた。
「あないな奴、放っておいたら絶っっっ対に、悪い女か悪い男に捕まって、骨の髄までしゃぶられんのが目に見えとる。
 母親に蹴られても殴られても、牧場で稼いで酒代貢いで……あいつの兄貴もバクチ打ちのとんだロクデナシでな」
 ものすごい家庭事情を聞いてしまった。いや、ミウシャの家も人をとやかく言えないが。
「青タンと腫れ上がった目ぇ、しょちゅうこさえて笑っとった。牧場の竜が騒いどるから何かて聞けば「僕が新しい傷こさえてるから、竜が怒ってはるの」とか言いおる。お前が怒れっつうの」
 底を割った話を、独り言のように漏らしていたレンが、われに帰って振り返った。相手が少女ということに、いまさら思い当たったらしい。
「すまん……あいつの話題を久々にしたもんだから、つい愚痴が滑ってもうた」
「いいえぇ。そうゆう話は、知っておいた方が触れずに済むけど、ご本人から聞けもしないですし」
 思えば、ミウシャが母親の話をする時、あの人はどこか寂しげな目をしていた。親兄弟の話題は、極力しないほうが良、と。
「本当に……君みたいな子が面倒見てくれれば世話ないんだが……お、居った」
 露天市場を抜け、町の広場のオープンカフェに、店長とそれらしき二百ポンド女性が同席している。
 ミウシャとレンは怪しまれることを承知で、傍の物陰に潜んだ。
 どうも、女性のほうがやや興奮している。
「――いてないでぶう!」
 でぶぅ、て。
 おそらく、ミウシャと同じ「ですう」という語調なのだろうが。
 レンが「ごぶっ」と噴出した。
「竜屋だなんて聞いてないでぶう! この話はなかったことにしてくだざあい!」
「あ……」
 やや、身を引き気味に、ルノーシャンが首を縦にした。
「僕も、ぶうぶう言わはる女性は、ちょっと……」
「がふっ」
 手で覆った口元から、レンが再び噴出した。
 ミウシャも似たようなもので、声を上げることも許されないと言うのに、堪えきれない。
(ふ、腹筋がぁ……)
 殺される。笑い殺されてしまう。
 このままでは命の保障がない、と二人は慌ててその場を離れた。
 破局も見届けたし、と言い訳をしながら。
「さて、急いで帰るか。馬で来とれば良かった」
 まったくその通りで、市街地から何キロもある竜屋へ、ルノーシャンよりも先に帰り着こうと言うのは、苦行だった。
 それも、足の長い軍人と同行である。
 店が見えた頃には、すっかり息が上がっていた。
「あら……? お客様かなあ」
 大きな鞄を抱え、人目を忍ぶ様子の褐色の髪の男が、店から出てゆく。
 ミウシャは、バルバルが留守番をしているという安心から、殆ど気に留めなかった。
 だもので、隣のレンが銃帯から得物を引き抜き、発砲したのには、心底驚愕した。
「何をするんですう!」
 レンの腕にぶら下がるように、体当たりで彼の暴挙を阻止する。
 男は銃撃されたことに気づくと、湖向かいの、脇の林へ飛び込んだ。
 白い悪魔が舌打ちする。
「あれは、あいつの兄貴だ!」
 吐くように告げられた、その事実に。
 ミウシャはうろ覚えの、先刻の男を思い浮かべる……猫背で、褐色のぼさぼさした頭で、振り返ったその目は悪意を含んでいた。
「ぜ……ぜんぜん、似てない兄弟ですう」
「当たり前だ、あない人間の屑。今度会うたら、殺してやろ思うてた。
 店に帰ってみ。絶対に金庫から金がのうなってるから。ルノは、昔っから金庫の番号変えん」
「だってえ……バルバルさんが居ますしい」
「彼かて、竜房の奥に引っ込んでる時のほうが長かろ」
 どちらにせよ、ミウシャは一介の事務員である。
 お人好しを絵に描いたようなルノーシャンとて、ミウシャに金庫の番号も、鍵も託していない。調べようがないのだ。
 ひとまず店へ帰ると、何事もなかったように、マスク男が在庫点検をしている。
「ただいま、ですう」
 バルバルはこちらを見て、肯いた。マスクの奥で、少しだけ微笑んでくれる。とっても澄んだ、優しい目をした彼に、ミウシャは安堵の息を吐いた。
 いやはや、レンと居たこの一時間弱、気が休まらなかった。
「あのう、さっき、お客様いましたかあ?」
 バルバルは、首を横に振った。
「じゃあ、さっき、バルバルさんどこに居ましたあ?」
 すると、彼は今、レナが居る独竜房を指した。
 なるほど、あすこに居ては、店内を家捜しされても気づかないだろう。
 少々無用心だが、店内にあるものは一般人に価値がないし、金庫は給湯室のポット下、という妙な場所にあり、鍵もかかっている。
「ぴあっ」
 バルバルのエプロンの、胸ポケットに収まったサファイアが、ぴぃぴぃと喚く。ルノーシャンの不在で、ご機嫌ななめらしい。
 ちなみに、カプーは眠ったまま檻に入れられている。
 その理由は、数分後、彼が目覚めた時に発覚した。
「ヒィイイイイ!!!」
 魂消るような悲鳴である。
「ヒィ、ヒィイイイ――――!!」
 何しろ、いつも主の首に巻きついているもので、主がいないイレギュラーには、サファイアの赤ん坊より耐え難いらしい。
 格子を掴み、真珠つなぎのような胴体を、限界まで膨らます、膨らます。
 檻が、カプーでみっちり詰まった。
「よう、カプー」
 顔見知りに気づいたカプー、レンに向かって威嚇する。
「オレにそない顔しても仕方なかろ。直に帰りおる、お前のご主人は」
 どうも、白い悪魔はマシュマロドラゴンに好かれてないようだ。
 それより、カプーのヒステリーが、他の竜たちにまで伝染した。店主のフェザーはともかく、預かりものの竜たちが、兄貴分の異常に混乱をきたす。
 特に、奥のレナ。レンの相棒が、何事かを怒鳴り散らしている。
「レナに顔は見せんほうが、ええよな?」
 レンがバルバルに確認をとると、店主に腕を保証された飼育係が、力強く肯く。
「だよな。殺される、よな……」
 平素、レナに振り回されているせいか、彼の表情はどこか投げやりだった。
 ミウシャは竜の悲鳴に辟易しつつ、伝票整理を再開。
 レンの言うとおり、店長はそれほど経たずに帰着した。彼らの故郷の人は、足が速いのだろうか。
「か―――っ、ぺぇ――――っ」
「うるさいよ、カプー。ちょっと離れたくらいで、大げさにせないの」
 騒音の元凶は、すげない態度で檻を解き放つ。
 毒を吐きそうなカプーの口を無造作に掴み、抱き上げた。
「ぶう、ぶうぅ」
 ふて腐れるカプーをそのままに、ルノーシャンは店内の人間へ目を配った。
「あ……レンちゃん、どないして服着とるの?」
「軍服は息苦しゅうてなあ」
「ふうん……僕、お見合いでフラれた」
「ぐっ……あっそ」
 お見合い、のキーワードで、あの腹筋が捩れ切れそうな出来事を思い出したのだろう。レンの仏頂面が僅かに歪んだが、鈍のルノーシャンは気づかぬ様子だった。
 ミウシャもバルバルも、もちろん知らぬ存ぜぬを装う。
「そう……そないことよりな、オレらが庭に出た隙を狙うて、お前の兄貴が来たわ」
「お兄さんが!?」
 幼馴染が、勢いよく食い付いたので、レンは肩を引きながら目を逸らす。彼の兄を殺意を持って発砲した直後だ。後ろめたかろう。
「金庫、確認し。金のうなってる」
「お金なんて、ええよ。いつ? さっき? 今から竜で追ったら、」
「ええ加減にしい!」
 レンは、ミウシャが伝票を散らすカウンターを拳で殴りつけた。困った人である。
「お前、あいつに何されたか忘れたんか!?」
「すぐどなる……僕は、お兄さんに何もされてないよ。お母さんみたいに、殴ったりせん人やの」
「何も!? あいつ、弟のお前のが才能ある言うて、逐電した挙句に博打で借金こさえて、お前を保証人にして」
「借金は、もう返したもの……」
「今かて、こないに金を盗みに来おる! これでも何もされてない言うんかっ」
「お兄さんは照れ屋だから、そうせないと、僕に元気だよって言われないだけ」
「勝手にしい! もう知らんわっ」
 ミウシャは、カプーがレンを嫌う理由が分かった気がした。
 レンが怒るのは、彼の荒い気性からして、無理からぬことだ。ミウシャでさえ、店長のような友人がいれば、歯痒さで叱り飛ばすだろう。
 カプーがレンを嫌うのは、もっとシンプルだ。
 レンが主人を泣かすから。
「お……おい………」
 捨て台詞を吐いて、少しは冷静になったらしい。
 幼馴染に声もなく涙され、たじろぐ白い悪魔は、なかなか良い見物だった。
「レンちゃん、見捨てたらあかんー…………」
「あかん、て。お前な……」
「あかんー」
 カプーにしがみつき、いつになく泣くルノーシャン。切迫した事情でなければ、目が潤むか、少し流れる程度で終わるのだが。
「あかんー、ですう。レンちゃあん」
 横合いから野次を飛ばすと、バルバルも腕を組んで、うんうんと肯いた。
 奥歯を噛み、苦々しげに、白い悪魔は目線を下へやる。
「お前みたいな、世にもしょうもない生き物、見捨てとうても、見捨てれんわ……」

 寝入りばな、昼間に訪問したと言う、兄のことを考えながら床に就いたので、子供のころの夢を見た。
 その日は、夜に荒れそうな空模様だった。
 吹雪く前に帰れと、兄に牧場から追い出された。お兄さんは、どうしてか最近、機嫌が悪い。
 こんな寒い日には、お母さんにはお酒が要るだろうと酒屋へ寄ったが、いつもの銘柄がなかった。
 湿った息をマフラーの中で吐きながら、舞い落ちる雪の間を掻き分け、家路をゆく。
 町から林を抜けた場所に、古いログハウスがある。元はきこりの住処と思うが、どうして母が、息子二人を抱えてここに住んでいるかは、分からない。聞いても答えは返らないだろう。
 レンちゃんは母を悪く言うけれど、「あの人は、人に裏切られて生きた人だから」と、お兄さんが大人っぽい口調で話したことがある。お兄さんとルノーシャンは父親が別らしいし、子供にはわからない複雑な事情があるに違いない。
 お母さんはすこし不器用なだけで、息子を愛していない訳ではないことを、ルノーシャンは知っていた。
 扉の隙間からそっと中を覗くと、お母さんが机に突っ伏している。
(また、あないにお酒のんで、服も薄いの着はって……体強うないのに)
 どうも、機嫌が芳しくないらしい。
 家に入って、お酒を彼女の隣の丸太椅子に置き、毛布を肩に掛ける。
 彼女は、ふと顔を上げた。
「あ……ただいま」
 母は鼻を鳴らしながら、置いた酒に手を伸ばし、ラベルに気づく。
 柳眉を逆立て、栓も空けていないそのボトルを振りかぶった。
 その後のことは、覚えていない。
 薄ぼんやり、意識が浮いたころ、ルノーシャンは寒い外気の中にいた。
 ただ、こめかみを預ける大きな肩が、上下していて。視界の端に映る、茶褐色の髪。
 頭の痛みに、少し顔をずらす。何かが巻かれている……包帯だと思う。
(お兄さん、お医者に連れてってくれはったのかな)
 最寄の町にも医者は居るが、貧乏人を診てくれる医者は、牧場を更に先へ行った郊外に居る。
 仕事を終え、疲れていたろうに、自分を背負い、積もった雪を蹴って往復してくれたのかと思うと、被ったフードの内に涙が垂れた。
(お兄さん、大好き……)
 しがみつく腕に、少しだけ力をこめる。
 いつもの林を通り、ログハウスが見えてきた。
 軒先に、母が立っている。コートの前を握り締め、唇を噛み、俯きながら。
 何時間、あそこで野ざらしになっていたのだろう。彼女の姿は、吹く雪で、雪だるまになっていた。
(お母さんも、大好き)


「う……く、るし……」
 息苦しさ、圧迫の苦痛、脳に血が通わない感覚。
 半覚醒のまま、夢うつつに暫し苦しみ、唐突に跳ね起きる。
 二頭の竜が、ルノーシャンの喉元から転げ落ちた。どちらも、仰向けになって尚、眠っている。
 頭を抱えた。ここのところ、サファイアの赤ん坊も順調に成長しているのだが、軽い竜種のカプーと同じように、ルノーシャンの首にへばりつきたがる。
 親の首元に懐くのは、竜の性だから仕方ない。しかし、喉に乗るなという躾が、どうにも成功しなかった。
 溜息しながら、もう一度横になる。
 そうした上で、二頭をゆすり起こした。彼らは当然、首元に戻って来ようとする。
「ストップ。喉に乗ったらあかんて、言うてるでしょ」
 むずかるのを引きずり降ろし、まずサファイアの、おむつから出る小さい尻尾の先を、軽く指先でつまむ。
「ぷぎゃっ!」
 仰天したサファイア、混乱のままに布団へ潜り込んだ。肝心の尻尾ははみ出しており、先端が下向きに震えている。
「カプーも」
 我関せず、と知らんふりしたカプーの首根っこ捕まえ、同じように、尻尾の先をつねる。
「かぺぇっ!」
 怒って、むっくりとまるく膨れるカプー。しかし、彼がおかんむりなのは、叱られたが故ではない。
 幼竜と比べ、強くお仕置きされたことに抗議しているのだ。
「サファイアのほうが小さいんだから、当たり前でしょ。むくれんの。もう……」
 怯える幼竜と、風船と化したマシュマロドラゴンを置いて、これ幸いと身支度をする。
 温度計をみやると、十九度ほどを示していた。北国の人間には暑い気温だが、暖かいのは良いことだ。
 サファイアをすくい上げ、胸ポケットに入れてやる。
 それを見たカプー、自分もそうして欲しくて、ベッドの上で仰向けに倒れた。
 最近、どうも甘ったれでいけない。もともと甘ったれなのに。兄貴風を吹かせて、意地を張っている方が、まだましである。
 ともあれ、新参者のおちびさんだけを可愛がる(ように思わせる)と、先輩の性格が悪くなるので、抱き上げて首へ回してやった。
 エプロンの胸の中、うごめく幼竜を宥めれば、三年前のカプーを思い出す。ルノーシャンが気落ちしていたところに、牧場長のアホネンが寄越した不思議な感触の卵。そこから誕生した、たった一人の家族。
 あれから、四年も経つのか。兄が失踪して、母が急性アルコール中毒で他界して、レニアスがウルヘイルの白い悪魔を継いで。
 様々なものを一時に失った穴は広く、深かった。カプーがいなかったら、今頃どうなっていたことか。
 考えるだけで、怖い。
「カプー、大好きだよ。ずっと僕の傍に居ってね」
 階段を降りながら、カプーの小さな顔に、頬を寄せる。
「僕を一人にせないでね……」
 朝から泣けてしまった。浮かんだ涙を、カプーに舐めとってもらう。
 甘ったれは、自分の方か。
 と、ちょうどレナに餌をやるバルバルが視界に入って、顔が熱くなった。竜にあんな恥ずかしいことを呟いたのを、聞かれてしまった!
 だが、バルバルは見ぬ振りである。林檎が入っていた木箱を軽々抱え上げ、竜房へ行く。
 ミウシャも、辛口のレニアスでさえ、彼の人柄をよく褒める。もちろん、ルノーシャンも彼のことは大好きだ。
 何か、罪を犯した故に覆面しているのかも……と踏んでいるが、それでも構わないと思っている。あんなに良い人柄のことだ。何か、やむをえない事情を抱えているに違いない。
 ルノーシャンも黙って、店を開ける準備に勤しむ。サファイアのことは、カプーに任せて。
 ポット下の金庫を開け、多少の金銭を釣り銭箱に収める。
 それへ鍵をかけたころ、竜独特の羽音が耳にかかった。庭へ出て空を見上げ、ルノーシャンは微笑んだ。
 来客は、いつぞやの競竜フェザー、ヘーゼルだったのだ。
 白い細身を滑らせ、地に降り立つヘーゼル。
 その背には、二人乗りの鞍があり、例の飼育係とイタチ顔の小男の姿が見える。
「お久しぶりです」
 次の訓練契約はなかったし、ヘーゼルが良い成績を上げてここへ来たのだろうと、飼育係へ親しみに声をかけたのだが。
 彼は、口の中でもごもご言いながら、俯いてしまう。縮こまりながら降り、やおら丁寧でおっかなびっくりの仕草で、相乗りの男が着地するのを手伝った。
 自分が隈の三白眼なのもので、人を人相で判断したくはないが、どうもあの男、嫌な感じがする。牧場で阿漕な話を持ちかける客が、どこか彼に似ているからだろうか。
「君が、先だってヘーゼルナッツバー号の世話をしたと言うトレーナーかね」
「あ……はぁ、トレーナーというか、竜屋ですけど」
 小男は、にっこり笑った。型へ注ぎこんで固めたような、営業スマイルである。
「いやいや、実に素晴らしい腕だ。ヘーゼル号を、見事スランプ脱却させた。
 この間、G1の重賞で優勝してね。栄えあるクラシックに出竜できることになった。
 実際、ここへフェザーを預けることは大きな賭けだったが……なにしろフェザーの中のフェザーを追求された竜たちだ。下手を打たれたら適わない。しかし、君の元いた牧場の話を耳にして、」
 意識が飛びそうだ。競翔竜を扱うことはあるが、競竜の知識はないし、興味もない。
 長々と口上を述べてから、男はようやっと本題を切り出した。
「そこで、君に専属の飼育係になっていただきたくてね」
 飼育係! それも、専属とは。
 ルノーシャンは面食らって、「無理です」と即答した。
 相手の細い目が、憎悪に炎を点したが、舌打ちして営業スマイルへ戻った。
「店ならば、こちらで運営を手伝おう。人も雇うし、投資もする。
 君には、こちらへ逗留してもらうことになるが、もちろん給料も弾む」
「そない問題ではないのです」
「言い値を出す! このヘーゼルは、三冠を取れるか否かなのだ。君の力が要るのだよ!」
「お気持ちはよう分かるし、僕かてヘーゼルに頑張って貰いとう思います。でも、他所へは行かれません。ご理解ください……」
 イタチ男はイライラしながら貧乏ゆすり(ヘーゼルにストレスを与えるので、やめてほしい)、渋々、肯いた。
「急な話で、驚かれたことでしょう。よござんす。また、来るので」
 来られても、困る。
 去り際に金貨の詰まった袋を差し出され、ルノーシャンは必死で拒んだ。こんなものを受け取ったら、断れなくなる。
 そこへ、強力な助っ人が登場した。
「あんまり店長さんにちょっかい掛けると、貴方のヒミツ、バラしちゃいますう」
 いつの間に来たやら、ルノーシャンの隣に、ミウシャ。
「何だね、君は?」
「私、あなたのこと知ってるんですう。べりべり★ベリーってお店の名前、ご存知でしょう?」
 イタチ男は、愕然と少女に見入った。
「な……なぜ、その名を」
「実家ですう!」
 とたん、男は見る間に青ざめ、金貨袋を抱えてヘーゼルに乗り込んだ。
「さあ! すぐに出したまえ!」
 哀れな飼育係は、まともな固定具さえできずにフライトする羽目に陥った。
 常ならば、危険なのでやめろと制止するところだが、関わり合いになりたくないもので、黙っていた。
「あ……すごいお名前のお店だね」
「ふふふ。婦人向け雑貨と、婦人服のお店ですう」
 跳ぶように踵を返し、店へ進むミウシャ。
「裏品書きで、男性サイズの婦人服も扱ってるんですう……」
 イタチ男の豹変ぶりが、何となく理解できた気がする。


***

 竜屋の従業員たちは働き者だが、彼らとて、休日がある。
 その日はバルバルが居なかった。
「店長さあん! サファイアちゃんがぐったりしてますう!」
 竜房から飛び出て、その容態を見る。
 このごろ、この地域にしては……サファイアの生息地にしては、暑い日が続いた。温度には注意を払っていたが、なにぶん、幼竜は体温調節機能がうまく働かないし、カプーや店主に懐くのが大好きなもので、熱を排出しきれなかったのやも。
 それにしても、たった十分前まで元気に動き回っていたのに!
「あかん……竜医の意見を聞かんと……」
 ルノーシャンはミウシャに金貨十枚も握らせ、郵便局へ馬で走ってもらった。
 人工精霊によるメッセンジャは、竜より速い。これで、恩師たる牧場の竜医に連絡し、必要品を送ってもらう。
 カプーのことは構えないので、檻に入れた。可愛い弟分が倒れたのに引き離されて、さぞ不満だろうが、今は我慢して貰う他ない。
(もし、手術が必要なら……トン先生の到着が最低でも数時間、オペに数時間)
 持つだろうか。この幼く、弱い命が。
(生きて。生きて)
 ぬるく湿らせたナプキンで、徐々に熱を奪いながら、青い瞳を硬く閉じる幼竜に、涙を落とす。
(天使さま、どうかこの子を連れてゆかないで……)
 多少の病状を、処置する知識はある。だが、それ以上は……それ以上は何もできない。
(お母さん、お医者が来るまで待たれなかった)
 湿った雪で何度も転びながら、おじいさんのお医者の手を引いて、走ったのだけれど、帰ったらもう、冷たくなっていて。
 遺品を整理した。下着の下から貯金が見つかった。
 あのお金は、何に使うつもりだったの。
 何で、今、こんなことを思い出す……?
 サファイアが力なく、ルノーシャンの手のひらの上で糞をした。殆ど水のような、血まじりの。
 これは、駄目かもしれない。本当に。
「失礼、お取り込み中のようだが」
 背後から、第三者の呼びかけがある。「帰れ」と怒鳴り散らしたかったが、客商売でそれは許されない。
「えろう、すみません。今、忙しいんです」
「そのままで良いので、聞いてくれたまえ」
 良くない。帰って欲しい。
 どんな神経をしていたら、泣きながら瀕死の幼竜を介護する人間に、こんな平坦に話しかけられるのだろう。
「専属トレーナーの件だがね。考えてくれたかい?」
 誰かと思えば、あのイタチ男か。
「それどころじゃないて、言うてるでしょう……!?」
 レニアスほどの迫力や、ミウシャほどの胆力が欲しかった。
 イタチ男は、その後も居座り続け、何やかやと一方的に語り続ける。
 鬱陶しいこと蝿の如し。こちらは先ほどの糞尿の始末、水やその他の新調に集中せねばならないのに、高い声に妨げられた。
「ええ加減にしてください!」
 ついに、爆発した。
「専属でなければ、調教でもお預かりでもいたしますから、今日のところはお引取りください」
「そうは言われてもだね、こちらとしても、契約がなければ帰るに帰れないのだよ」
「専属でなければ、契約いたしますて、言うてます」
 とにかく、この男を帰さないことには、サファイアの看病に専念できない。
 ルノーシャンは差し出された紙に、片手間でサインをして、幼竜へ向き直った。
 さきほど、腹を下したが、これは下の筋力が弱まったのか、はたまた、何か悪いものでも食べたのか……
 大体の動物がそうだが、竜には、一度食べたものを吐き戻す能力がない。
(あ……幼竜の口に突っ込む器具、念のために買うておいたんだった)
 あんまり動転して、忘れていたらしい。これはしたり、と小道具棚を漁り、柔らかいゴムに覆われたピンセットを取り出す。
 酸や炎に負けない、ユニコーン皮手袋をはめ、サファイアの顎を人差し指で固定する。
 消毒したピンセットを、用心深く沈ませてゆく……呼吸器官へ届かぬように。
 心臓が壊れそうだ。頚動脈が激しすぎる血潮に、悲鳴をあげていた。
 胃に到着した。何か、大きな塊がこつんと当たる。
 それを、えらく狭い範囲で必死に摘み、ゆっくり、ゆっくりと引き上げる。
 半溶の物体が、でろりと糸を引いて幼竜の口からこぼれた。
「べ……ベリー」
 元より腐っていたと思しき、毒々しい赤の木の実。
 まだ、果物の皮や種を消化できない癖に。
 カプーや皆の目を盗んで、こっそり口に運んだのだろう。
 喜ぶべき成長が、何とも切なかった。ペンのキャップを呑んで、死ぬ赤ん坊が居ると聞いたことがあるが……その親はこんな気分に違いない。
 改めて彼の周りを清潔に整えてから、栄養剤と、殺菌作用のある漬けた木の実を、ペースト状にして与えた。
 サファイアの体にこもった熱さえ、ベリーが原因だったようで、牧場長が訪問した頃には快方へ向かっていた。
「おう、おう、坊主。またぞろ、泣いとんか」
「もぅ、涙も引っ込みましたわ」
 目じりを拭いつつ、恩人を見上げた。
 恰幅の良い、赤い陽気な顔の老人である。人呼んで、二日酔いサンタ。
 サンタというのは、古い時代の童話に登場した、子供に夢を与えるキャラクターだ。テクトが発祥地、らしい。
「あ……アホネンさん。トン先生はどないしたの?」
「トニエルはのー、ちょぉと、手が離せなこうてん。夏風邪ちごうんか言いおるから、あかんぼ用の座薬もって飛んできたわ」
 文字通り、飛んで。外では、アホネンの長年の相棒たるレッドガリバー種のトナカイ(名)が、翼をはためかせている。
 体表が赤というより茶色で、鼻炎気味の鼻が光って見えるため、バザーで売れ残っていたのを、若き日のアホネンが引き取ったらしい。
 アホネンは、カウンター上の幼竜を目にして、白い豊かな口ひげをしごいた。
「ようなったんかのう? かぁわええのう」
 そんなことを、溶けるような皺の笑顔で言って、恰幅の良(過ぎる)い体を折り曲げ、幼竜の傍へ近づく。
 そうして、彼は下顎を突き出した。
「おまえ、まぁた竜と自分を消臭しとるんか」
「あ……だって」
 分かる人には、分かってしまう、ルノーシャンの隠れたエゴ。
 子供のころ、まだレニアスと仲が良くなかったころ……町の子供たちが、竜くさい、竜くさいと嘲るもので、トラウマになってしまったのだ。
 気まずく俯く。
「そら、確かに体に悪かのうが、ルノや。動物は相手を匂いで識別しおるもんだわ。
 匂いが在ること自体を、嫌うたらあかん。生き物は、自然である言うんが大事」
 お説教の途中ですが。
「店長さあん! 連絡っ、とったですうっ。サファイアちゃんはあ!?」
 硝子の扉をぶち破る勢いで、帰ってきたミウシャ。
 今は寝返りを打つほど回復したサファイアの姿に、荒い呼吸のまま口元を押さえ、目許に大粒の涙を浮かべた。
「よかった……あた……あたしの方が死ぬかと思ったよう………」
 同感である。寿命を削られた気分だ。
 竜の臨終に幾度も立ち会ったが、慣れることはない。
「ところで、店長さぁん。お空を軍竜が数頭、旋回してましたあ。どうしたのかな」
「そないこと……?」
 トナカイの悲鳴が上がった。
 [お客様]は静かなものだが、なにしろ、田舎でのんびり過ごす去勢された飛竜とでは、住む世界が違う。
 双眸をじっと前へ、翼を畳む黒竜……レナと同じ、ルビーアイ種の戦闘竜である。
 降りたライダーは、二人が濃い灰色で、一人は漆黒の軍服で身を包んでいた。
 レニアスと対極の黒。
 ウルヘイルの黒い悪魔である。
 ただならぬ様相だった。ルノーシャンは震える足のまま、この場の責任者として前へ進み出る。
「あ……御用やら、何か……」
 バルバルと同じくらいの上背で、しかし鞭のようにしなやかな[黒い悪魔]を見上げ……頭に血が偏っていたため、そのままひっくり返りそうになった。
 彼は擦り切れたグローブの指で、紙をこちらの目前へ突きつけた。
 見覚えがある、気がする。
 何より、小文字がひしめく書類の下部には、ルノーシャン自身のサインが刻まれていた。
「契約内容に則り、ご同行願う」
「な……何のことです?」
 イタチ男と交わした契約は……
 そう反論しかけ、ルノーシャンは契約書の内容をあらためた。
(専属……契約………)
 先方の屋敷へ住むことを含めた、ヘーゼルを筆頭にその他、スピネル氏の飼い竜の世話、調教の契約。
 生涯。
 末尾、ついでに加えられたような単語に、空いた口が塞がらなかった。
 精神が磨滅した直後だったこともあって、思考が真っ白に染まった。吹雪いた翌日の、草原のように。
「どうして、こんな理不尽な契約書にサインしちゃったんですう!?」
 覗いたミウシャが金きり声を上げる。
「さっき……い、忙しゅうて……」
 確認もせず、殴り書いた。
 兄がつけてくれた名前を、粗末に扱った報いだろうか……
「いくら手が離せなかったからって、鈍くさすぎますう!」
 まったく、彼女の言うとおりである。
 後方に控えていた軍人二名が、まるで罪人を引っ立てる動作でルノーシャンの腕をとる。
「そ……そない、僕にも都合が……せめて準備を」
「至急、と命令されている」
 そもそも、なぜウルヘイルの黒い悪魔が絡んでくるのだろう。イタチ男の上司(?)スピネル氏とは、一体何者なのか。
「ルノ。逆らうな」

 恩師の低い声音に、縋る目を向ける。
「ええから。お前の命のが大事だ。行け」
 項垂れる間にも、引きずられた。
「カプー……」
 檻の中、外の尋常でない様子に困惑する愛竜を、何とか首を回して姿を一目見る。
 ずっと一緒に居てと頼んで、離れてゆくのが自分の方からなど。
 笑えない冗談だ。

ミウシャは月の高く上がった湖のほとりで、馬を飛ばしていた。
「レ、レニアスさ……さあん、おちっ落ち着いてくださあい!」
 呼ぶが、先を駿馬で突き抜ける白い悪魔の耳には、届かぬようだ。
 闇夜の薄霧の中、ミウシャの声と、馬の蹄が空しく響く。
 あのサンタのような太いお爺さんは、店長の恩師らしい。
 アホネンは、ルノーシャンの部屋から過去の手紙の封を探し当て、レニアスの居所を調べた。
 ウルヘイルの寮など、流石のミウシャも気後れしたが……終業後の軍人は、意外にも親切だった。
 女の子がレニアスを訪ねてきたと知るや、「ガドリンの白い悪魔も、人の子か」と苦笑交じりに彼を呼んでくれた。
 面食らい、やや迷惑そうな顔をするレニアス(彼、実は女性にもてないんでなかろうか)に、事の仔細を話したところ、怒髪天。
 どうも、ルノーシャンのことに加え、黒い悪魔が彼の怒りに油を注いだらしい。
 銀のスピアを手に、青毛の馬に跨って。
 そして今に至る。
 何とか店へ着いて馬を繋ぎ、中を覗く。
 カプーを首に巻いたアホネンに宥められるも、ゆだったままのレニアスの怒声。熱した油に水を流したようなものだろうか。
(あ、バルバルさんが居るう)
 休暇中のバルバルが居ることに、首を傾げ。
 しかし、心細さで彼の側へ駆け寄った。バルバルは我が店のオアシスだと思う。
「バルバルさん、店長さんが……」
 マスクの奥の澄んだ目が凛としており、彼は静かに肯いた。
「スピネル!」
 レニアスが吼えた。
 アホネンから、一部始終を聞いたらしい。
「知っとる。あの、……アホがァッ!」
 彼は階段側の独竜房へ回り込むや、レナの背に鞍を置く。
 レナにしてみれば、久方ぶりの主との再会だ。だというのに、ろくな挨拶もないのだから、我侭レナでなくとも腹が立つというもの。
 しかし、理不尽にも愛竜に対し、「黙れ!」と恫喝するレニアス。
「これ、これ……そないにしたらあかんて。嫌われりゃあ飛んでる内に落とされんど」
 アホネンの忠告も、悪魔の耳に祝詞。
 いつになく、猛る主に気圧されて、レナはなすがまま外へ連れ出された。
「あかんわ」
 アホネンは、店員二人を振り返った。
「追うとくれ。ここの竜らは、わしが見とる」
 肯くバルバル。彼は、アホネンからカプーを受け取り、己の肩に乗せる。
 カプーの体はいくらか、しぼんでいた。以前のように、喚いたり膨らんだりせず、目減りして。それが何とも、痛ましい。
 ミウシャは、無愛想フェザーの元へ向かうバルバルの後を追った。
「ミウも連れていってください」
 バルバルは、首を横に振った。遊びじゃないぞと、目が叱っている。
「ごめんなさい……ミウは」
 視線を竜房の床へ落とした。
 が、消沈した訳ではない。断じて。
 口元に笑みを乗せ、マスク男を真っ向見据えた。
「待ってるだけとか、死ぬほど大嫌いなんですう。
 指くわえて、めそめそ祈ってるあたしとか、想像するだけで虫唾が走るんですよ。
 連れてってくれないなら、郵便屋さんのエルダーに乗ってでも突撃ですけど、構いませんかあ!?」
 脅しでも何でもない。死ぬか否かなど、二の次である。そしてテクト女に二言はない。
 バルバルが、「やりかねない」と思ったかは知らない。ただ無言で、補助鞍を設けてくれた。
 気のせいか。
 彼の目が、悲しそうな光を灯したのは。

 その光の名は、羨望と言う。


***

 何だか大きなお屋敷に着いて、身ひとつ、物置のような狭い部屋へ放り込まれたルノーシャン。
「ど……どない寝ればええの……?」
 ベッドはおろか、寝具になりそうな代用品さえない。
 いかな、温暖な日々が続いていると言えど、深夜にはぐっと気温が下がる。毛布の一枚もなしでは、過ごせない。
 外から施錠した音も聞こえ、部屋は屋敷の隅だった。呼んでも、誰も応えないだろう。
 まるで、物の扱いだ。
 あの、緊張しいの飼育係を思い浮かべた。こんな大きな屋敷に召抱えられている割には、心身ともにくたびれた姿。人に怯える態度。
 こうなると、ヘーゼルたちが普段、どんな扱いを受けているか、おおよその察しがついた。
 能力のある竜を買い取り、飛べるだけ飛ばせて打ち捨てているに違いない。
 月明かりが照らす壁へ凭れかかり、腰を下ろす。この部屋は、寒い。息が白いほどだ。
(カプー……アホネンさん……)
 このまま、一生会えなくなったら、どう……
 アホネンはともかく、カプーは数日も自分に会えなければ、衰弱するに違いない。お兄さんのフェザーと違って、精神的に脆い子なのだ。
 かく言う自分が危うくはある。もはや、依存症。カプーはもう一人の自分と言っても過言ではない。
(レンちゃん………)
 ウルヘイルの黒い悪魔が、関与したほどだ。スピネル氏とやらは、ウルヘイルに介入する権力を持っているのだろう。
 レニアスは、助けてくれない……助けられない。そんなことをすれば、造反になる。
 ウルヘイルにおいて、裏切りは死に値すると言う。
 助けて欲しい、と一瞬でも思った自分が馬鹿だった。自分の愚鈍さが招いたことで、レニアスが死んでしまったら、耐えられない。その時は後を追う。
 そうと決まった訳でもないのに、ルノーシャンの脳内で、無茶無謀の挙句レニアスが銃殺されるシーンまでドラマが進んだ。
(レンちゃん、死んだらあかんー……)
 堪えきれず、嗚咽を漏らして泣き咽ぶ。疲労と混乱、空腹に孤独、暗闇が不安に拍車をかけた。
 と、閑静なこの一角に、無骨な軍靴が接近してきた。
 扉の、鍵を弄る音。
 息を詰めて見守っていると、黒い悪魔が高い背を窮屈そうに丸め、中へ顔を覗かせた。
 改めて見るにつけ、力のある顔つきをしている。レニアスを刃の切っ先と喩えるなら、彼は大剣の刀身といったところ。
 無表情のまま盆を持つ彼、怯えるルノーシャンの前へしゃがみ込んだ。
 いわゆる、ヤンキー座りである。
「ほんと自分、よう泣くわー」
 いかにも冷酷な罵声が飛び出そうな唇から、裏返り気味の訛りが。
 それはおろか、黒い悪魔は、その厳しい顔を崩し、にっかりと笑った。
「言葉聞いて思うたんが、自分、故郷どこよ!?」
「あ……西の、ペルナ市て言いはりますけど」
 口ごもりながら答えれば、彼は我が意を得たりとばかりに、嬉々とした表情になる。
「やっぱりやん、近いがぁ。オレ、イッタ市の生まれなんよ」
 テクト国と言っても大陸の四分の一を占めるほど広いし、隣の市はかなりに遠い。
 それでも、故郷の傍の地名を聞いて、妙に安堵した。
「さっきは、すまんかったなァ。オレにも建前とかあんよ。黒い悪魔継いでもうたし。ま、中身は見ての通り言うこって。がっはっは。
 オレはベルンハード言うん。ごっつ強う名前だが? よろしゅうなー。
 自分、名前は?」
「……ルノーシャン、言いはります………」
 濡れた氷のように滑る弁舌に、目が回りそうな思いだった。
「これ、食うか」
 と、差し出された皿をとる。暖められているパンのせいか、皿の底も暖かい……小麦の香ばしい香りが、食欲を誘う。
 黒い悪魔こと、ベルンハードは盆を床に下ろし、ティーポットから茶を注ぐ。集中しているのか知らないが、唇がやや尖っていた。つつきたい。
「暗い暗いなァ。なんー、こん部屋ァ。あんまりやんな。物置か言うの。何とかしたるわ。かわいそうだがな。寒いがァ!」
 最後、唐突に吼えたもので、ルノーシャンは慄いた。まるで竜の嘶きである。
 勝手に吼えて、勝手にすっきりした顔のベルンハード、上着を脱いで、ルノーシャンに被せた。捨て犬の世話でもする手つきだ。
 黒衣には、多数の装備が仕込まれているらしく、重い。それも、ベルンハードにあつらえられた上着なもので、ルノーシャンを埋めるほどに大きかった。
 ベルンハードは自分の上着との対比で、疑問を持ったか、首を傾げた。
「一応聞くが、自分、男だよ、な?」
「女の子に見えはる……?」
「なんがー、ごっつゴツか軍人やらばぁっか見てん。自分、めっさ細ッこいやん。おっとりしとるし。泣くし。
 ペルナ市て言うたら、ガドリンの生ッ白い悪魔もそうが、女なんか男なんか、よう分からんなー、あの土地の人間はァ。
 そういやァ自分の店、ごっつ可愛え娘おったやん? あの子なんて言うんかな」
 また、話題が変わった。いい人だが、ちょっと、疲れる。
「ミウシャさん、言うんやの。賢くて、ええ子ですよ。鉄火なところもあらはるけど……」
「知っとる知っとる。この辺のヲナゴはおっとりしとるよう見えて、ものごっつ気ぃ強いやんなあ。こん前、大人しう思うた彼女に、ビンタでフラれてべっくらこいたわ」
 何をしたのやら。
 思わず噴出すと、ベルンハードの目が月を反射しながら和んだ。
「やぁと、笑いおった」
 乱暴に、頭を撫でられる。鷲づかみにされそうな、大きな手だ。
「笑っとらんと、女の子にもてんわァ。よしよし、ええ子ええ子。泣かれると、オレのキュートな心臓が縮むやん」
「こ……こない変な人、はじめて」
 こんなに笑わされたのも、はじめてである。
 肩を震わせても、落ちないぶかぶかの上着の中で、腹を押さえる。
 ひとしきり、笑い終え……表情筋が衰えた気がした。
 震えた息を吐く。
「僕……どないなるんかな」
 いまひとつ、現実感が沸かない。生涯、ここに居るなどと。
 あの契約書を握られては、逃げ出しても捕まるだろう。訓練中、フェザーに乗って亡命する、という手段をちらと考えたが、店に残ったカプーたちを、まさかに置いてゆけない。
 それに、縁もゆかりもない異郷で生きていかれるほど、ルノーシャンは強い人間ではなかった。
 ベルンハートも溜息ついた。床に胡坐をかき、月を見上げて下唇を突き出す。
「そないなこと、オレも聞きたいわー。実は、競竜で大仰な借金こさえてもうて、スピネルにええよう使われてん。オレん他、一緒だった二人もォ」
 彼らもか。
 というより、規律の厳しいウルヘイルで賭け事なぞ、よく……
(だから、スピネルさんとやらに弱み握られてもうたのかな)
 潔癖なレニアスが聞けば、義憤に燃えそうだ。
「ウルヘイル所属のオレが、こない民間人に肩入れしとるんバレたら、首飛ぶが! が、スピネルの婆ァ、うまいことやっとるようでのー」
 男性と思っていたが、「ばばぁ」ということは女性らしい。
「うまいかて、ウルヘイルのお仕事は、どないしてはるの?」
「日中は通常どおり。夜やら非番やらはスピネルの護衛勤務言うことんなっとるが。あーぁ……」
 頭を抱え、食いしばった歯の隙間から獣のように唸るベルンハード。
 いつぞや、失踪した兄の保証人に(なぜか)なって、兄の命の為に必死で返済した記憶があるので、他人事のように思えない。
「どない……借金こさえたの?」
 そっと訊ねてみる。
 腕の隙間から顔を覗かせた黒い悪魔の笑みは、奇妙な不気味さを湛えていた。
「心臓の肉、一ポンド」
「え……?」
「心臓の肉一ポンド。それがオレのこさえた借金」
 競竜での賭けは、元締の賭けだけでなく、個人間の賭けもあると聞く。
 怖い奴はの、自分の臓器を賭けおる。
 竜医のトン先生が、牧童で一番の怖がりであるルノーシャンに、語って聞かせた怪談話である。
 だが、その話にはオチがあった。
「心臓以外を傷つけるんは、違反でしょ。そうしたら、心臓は取り出せんでしょ?」
「だから苦労してんがァ」
 返済の宛てが、却って外れたらしい。
 救いようがないとは、このことか。
 もっとも、契約内容をよく確認もせずサインした自分は、人をとやかく言えない。
「でもな……いつか、こないな日が来るんじゃないかと、覚悟はしとった。
 オレな。軍に内緒で覆面ジョッキーしとったん」
「そないに悪いことやの?」
「別に。見て見ぬフリされとった。当然、仕事最優先だし。
 オレな、ガキの頃から訓練訓練で、遊びの一つも知らんで育ったんだわ。一度、部下に誘われて飛んだレースが忘れられのうなってな……そんでも、分を弁えてりゃ、こないなことにならなかったんが。
 ただ、アイツに勝ってみとう思うたが、運のツキだった」
 途中で、身の上話をする不自然さに気づいたのだろう。ベルンハードはふと、話をやめてしまう。
 それに構わず耳を傾けると、彼は苦笑ながら、言葉を連ねた。
「タッパがある癖にの、ごっつ小そうヘーゼル号の背に乗うて、稲妻みたいに空をぶち破る男だったわ。
 競竜はやるクチか?」
「ううん……かけごとは怖いもの」
「そんじゃ、知らんかもしれんがぁ。呼び名はアダム。ちょぉ前までスピネルに雇われとった、伝説のジョッキーでな。オレと同じ、覆面ジョッキーだった。
 オレがスピネルに弱み握られたんと同時に、行方不明になったらし」
 と、彼は大きな身体を大きく伸ばした。
「なんが! こないに素のまま喋ったんは、何年ぶりか! 疲れてもうたが、すっきりしたわ。ありがとな、クマくん」
 失敬な! 目の隈は、寝不足の賜物ではない。子供の頃からこうなのだ。
 ルノーシャンが抗議する前に、異変が起こった。
 そう遠くない場所から、悲鳴と、大破した硝子の音。
 ふいと、ベルンハードは表情を改め、立ち上がった。人懐こそうな今までが幻だったかのような、まごうかたなき、黒い悪魔の顔である。
「待っとき。鍵はかけんから、危のう思うたら、逃げぇ」
 黒い悪魔は、靴の踵を鳴らし去った。
 彼が消え、一人になり、まるで部屋の気温が下がったようだ。
(レンちゃん……?)
 待て、と指示されたし、鍵つきの部屋へ押し込められたほどだ。自由な身分ではないのだろう。
 が、胸騒ぎがして堪らない。
(レンちゃん、早まらんといて……!)
 一見、理知的なレニアスだが、その実、激昂すると箍が外れ……ると言うよりは、箍を己が手で引き抜いて、暴走するタイプである。
 ウルヘイルで彼がまともにやって行けるのか、真剣に心配したことさえある。
 ルノーシャンはノブを握り、廊下へ飛び出した。

 無性に憤りながら、レナの手綱を握り、霧の夜を引き裂いていた。
 レニアスには、今も昔も友人はない。
 必要性を感じないのだ。人付き合いなど、親類と仕事絡みと、それから……
 あれ、の世話で手一杯である。

 レニアスが白い悪魔を継ぐことは、産まれる前から決まっていた。物心ついた頃から、出産故に一線を退いた母に、手ほどきを受けて育った。
 ウルヘイルが何たるか、実態を知ったのは配属されてからのことだ。
 黒と白というのは、つまるところ派閥である。ウルヘイルの者は入団と同時に、どちらにつくかの選択を迫られる。
 そうして、曖昧な鳩色の軍服からはじまり、昇格するごとに、黒か白に近づいてゆく。
 黒、白と、悪魔と呼ばれる将校は、必ずしも世襲制ではないが、多くの場合は親類が継ぐ。実力があろうとも、後ろ楯のないウルヘイルの将校は、対の勢力に呑まれる。
 黒と白の拮抗が、ウルヘイルという特異な師団を支えていた。
 その後継となるよう男児を鍛えようと言うのだから、幼少時からレニアスが受けた訓練の過酷さは、筆舌に尽くし難い。
 千尋の 谷から突き落と……せば人は死ぬが、申し訳程度の命綱一本で、絶壁を登らされたことならある。
 騎竜訓練が始まったのは、ちょうどその折だったか。
 ガドリン家の跡継ぎと名乗れば、後はいいように計らってくれると送り出されて。
 暢気に遊び暮らす、町の子供を横目で見ながら、大雑把な地図に従い進む。
 郊外にある寒々しい牧場は、目につく場所に、誰も居なかった。
 業を煮やし、けたたましい鳴き声の響く、粗末な木製の竜房を覗くと、レニアスよりやや年下と思しき十歳以下の子供が、台車を押して竜に餌を運んでいた。
 竜の騒ぎようは理解できないが、子供の動作が悪い理由は分かった。あれは、怪我をしている者の動きである。
 重い野菜籠を、蹲るように竜へ与える姿。見ていて、居心地の悪さを覚えた。
「手伝ったろうか?」
 声をかけると、子供が振り返る。
 その顔に、レニアスの思考が止まった。
 何も、彼の三白眼に驚いた訳ではない。
 腫れた頬に、絞めた指の跡が残る喉元。これをしてのけた者の、憎しみと殺意を感じた。
「ええの。僕のお仕事だから、大丈夫。ありがとね」
 どう見繕っても大丈夫でない顔のまま、何ともトロくさそうに笑うもので、事情を聞くより呆れてしまった。
 これが元で、何度も牧場へ訓練のために足を運ぶうち、打ち解けるようになる。
 不思議なのは、彼の竜のあしらい方だった。他の牧童なら、竜の扱いにはおっかなびっくりの節がある。彼の大柄な兄もだ。
 事実、竜というのは癇癪持ちで、逆鱗に掠れば死にも繋がる。
 だというのに、彼の竜への接し方は、あまりに無造作だった。
「お前、よう、あないな風に竜を触れんな」
 聞けば、「ちょっとコツがあるんやの」と珍しく、得意げに語った。
「竜もいろいろ思うてはるの。だけど、上手に言われなくて、伝わらないのがもどかしうて、暴れてまうの。
 大事なのは、僕が相手を知ろうと思う、心底の気持ち。
 ……耳を傾ければ、なんもかんも分かる訳ではないけれど」
 妙に大人びた目を細め、いっそ泣きそうなほど朧に微笑む。
「レンちゃんは、竜とよう似てはるよ……」

 山に切り込む、赤い屋根の屋敷が目に入ると、レニアスの意識が現実に引き戻された。
 門から向かって見て、ロビーに当たるであろう扉の上。
 おあつらえ向きに、シャンデリアの見える大きな窓硝子がある。
 すぅ、と……霧が肺を満たす。窓の中を一睨し、いっそ、笑った。
「退屈だったろう。レナ」
 ぬるま湯で温められて、内が声に耳を傾けて貰い、逆鱗さえ清められ。
 味をしめたが最期、死ぬまで中毒に苦しむ。
「さあ、お前の本分だ。行け」
 破壊を囁き、細い竜笛を吹き鳴らす。
 乱暴な命令にレナが咆哮を上げた。
 弾丸のように世界を切り裂きながら、何をやってるんだか、こんな場所で。自嘲した。
 レナの辞書に、躊躇の語彙はない。彼女はその立派な角を前に倒し、虫でも払うかのように窓を割った。
 阿鼻叫喚の使用人どもに、用はない。
 大広間にレナを落とし、レニアスは吹き抜けの二階へ向かって声を張り上げた。
「黒の者! 姿を見せいッ」
 力ずくで強行突破するならば、後の者は話にならない。障害は奴のみ。
 時を待たずして階上より現れた、対の悪魔を見上げる。長刀を携え、ふてぶてしい笑みを口元に乗せていた。
「これは驚いた、ガドリン少佐。昼にも会ったが、夜にも会うとは」
 それを、唾棄するように嘲笑う。
「黒と聞いて誰かと思えば、貴様か。竜兵大隊長でありながら、何たる醜態……」
「規律違反は同罪だ。私にすれば、ここで君の顔を見ることこそ、合点がゆかぬ」
 軍服姿に軍竜で、民家に乗り上げた。レニアスとて、始末書で済む問題ではない。
 レニアスは目を細めた。
「そうだ。事情など、互いに知ったことではない。道を開けろ。さもなくば死ね」
「何がそうまで、鬼畜生と罵られるほど冷淡な君を狂わすのか、知れぬが………」
 焦れる、歩み。こちらの精神がたわんでいることを見越してのことか。
「この先は、私の屍を越えて行け」
 間合いとタイミングを計る。
 就任してより、黒衣のベルンハードと衝突したことは、未だない。無益として、距離を置いてきたのだ。
 こうして、互いの能力を把握しない対決になるとは……
「レンちゃん!」
 白と黒が見上げたのは、同時だった。
 もっとも次の瞬間、黒のベルンハードは床に叩きつけられる羽目に陥ったが。
 彼は、倒れたまま身を捩り、己の上に降ってきたものの頬を、可能な限り引き伸ばした。
「無茶しおるー! 刃物持っとるんやら、危なかろ!? 切れたら痛いが!」
「あ……ふぉ、ふぉめんなふぁ……」
 抓られる手から逃れ、袖から出ない手を突っ張り、必死の形相でこちらを見やる……
 大幅にサイズの合わぬ黒衣を羽織った、幼馴染。
「レンちゃん早まらんといて! 今からでも遅うないから、ここから……」
 食い入るような視線に気づいたのだろう。ルノーシャンは言葉を切った。
 レニアスは彼の腕を引き、己の背後にやる。
「ルノに何しよった―――――ッ!!」
「なんがー!?」
 互いに、故郷の言葉が諸に出たが。
 互いに、それどころではない。
「ダァホッ! そないな訳あるかッ。お前と違て、こないクマ手ぇ出すほどヲナゴに不自由しとらんが!」
「俺かてこない三白眼手ぇ出さんが、貴様ならやりかねんわ!」
「なんがっ! 俺はボインが好きなん、ボインがッ! この……ッ、レンちゃんがァ!!」
 幼馴染につけられた、不名誉な烙印の件に触れられると、怒りの矛先が今度はそちらに向いた。
「俺をそないに呼ぶなて、言うたろうがー!」
「あ……つい」
「呼ぶな呼ぶなと言うて早十周年! ついに敵に知られてもうたわッこの藁屑頭ァ!」
「……すぐどなる………」
「そう言うお前は……」
 決まり文句に華が咲いた矢先、レナが吼えた。
 主人の荒れように、恐慌をきたしたらしい。
 しかし、ルノーシャンに「あかんよ」と睨まれれば、たちどころに翼を畳んでしまう。
 レニアスの愛竜は、暫く見ないうちに、すっかり手懐けられてしまったようだ。
 放置された黒が、胡坐と頬杖でこれみよがしの呆れ声を放つ。
「今晩は、お客さんが多いこって」
 顎でしゃくられた方角……レニアスが侵入した、例の窓である。
 窓枠に立ち(チェリー柄の下着が見える)マスク男の乗ったフェザーを妨げている、事務員の少女。
「店長さあん! 無事ですかあ」
「ミ、ミウちゃ……危ないから降りてぇ」
 飛び降り自殺の真下に居合わせたように、真っ青に震えた、か細い声のルノーシャン。
 少女は、店長の意図を正確に理解しなかったと思われる。
「わっかりましたあ!」
 二階よりやや高度があると思しき場所から、一片の恐れもなくダイブ。
「ミウちゃぁっ……」
 そんな悲鳴も何のその。
「フンガァ!」
 凄絶な掛け声とともに、着地成功した。
 さすがに、足が痺れて声もない様子ではあったが。
 それと間もなく、ドライフルーツのように枯れたマシュマロドラゴンが、主の顔に飛びついた。
「カッ……息、できな……」
「かぺっ、かぺっくわぁ!」
 胴に比べて短い尾を、ちぎれんばかりに振り回すカプー。確かあれは、不愉快の印だったか。寂しさで、腹を立てているのだ。
 何ぞ、不要物まで勢ぞろいしたらしい。レニアスはどっと疲れた。
 ともあれ、ルノーシャンの身柄は押さえた。
 あとは、あの黒い猥褻物の魔手から逃れ、レナに乗り込むだけだが……
「これは何の騒ぎですのん?」
 オペラ歌手さながらの声が、この何とも言えない味の場面に水を差した。


***

 ルノーシャンはカプーを顔から剥がし、階上を仰いで目を瞬いた。
 見合いの席で知り会ったアリッサ嬢よりも、遥かにふくよかな女性が、広がりある裾のドレスで階段を降りて来なさる。
 その有様、魔人の如し。擬音にして「どしん、どしぃん」がよく馴染む。
 ボリュームある瞼に負け気味の瞳が、ベルンハードを見下した。
「説明あそばせ。なんですのん?」
 腹の奥から響いてくる声が、耳を痺れさせる。
 ベルンハードは非常に投槍な表情で、床に視線を落とす。
「スピネル夫人。オレはオレの意志で賭けさせて貰うたが、竜屋のについては、あんまりなんと違うか。
 悪いことはできんなぁ。白い悪魔がごっつ怖い顔で突っ込んで来たが」
 ルノーシャンの味方をしてくれたように見せかけて、ベルンハード。彼はただ、矛先をレニアスに向けたかっただけだ。
 黒い悪魔の目論見は功を奏し、スピネル夫人はレニアスに目をくれた。
「民家に軍竜で侵入なさるのが、白家のやり方ですう?」
 元より、箍を抜いてここまで来たレニアス。考えていることは大体分かる―――契約書を握られているので、自分とカプーとを連れ、レナで国外逃亡する気だ。
 腹いせに、スピネルを殺した挙句に。
「やめんか生ッ白悪魔ァ!」
 ベルンハードの制止の声が……とても余計だった。
 レニアスの左足が大きく踏み出されたのを見てとり、ルノーシャンは彼の肘をとる。
 この幼馴染は、本当に竜によく似ている。強く咎めてはいけない。力ずくで立ちはだかってはいけない。
 くるむように触れるだけ。
「あかんよ。レンちゃん」
 この声のトーンで囁けば、レニアスも鎮まる。
 舌打ちしてルノーシャンの手を振り解いた彼へ、ベルンハードは先を続けた。
「今、お前が何ぞしでかせば、害が出るんはお前の家だけと違う。ウルヘイルは勿論、ここら一帯の治安やら、テクト全体の危機にも陥りかねん。
 ま、それはええ。そないなことは言わんでも分かっとろう。
 けどな。お前の後ろの、泣き虫のクマ。そいつが、ごっつ厳しう逃亡生活に耐えられる思うとるんか?」
 また、クマって言った。クマって……
 腐れていると、レニアスがこちらを振り返っていた。げんなりした顔で、溜息された。何なのだ。
 それより、スピネル夫人に視線をやる。殺されるか否かの淵だというに、彼女の注意はこちらにない。
 彼女は、いっそ恍惚とした眼差しで、ルノーシャンらの先を見つめていた。
「帰ったのね、アダム……」
 十歳は若返ったように見える。ルノーシャンの母が、その時々の愛人に向けるのと同じ、甘い声だった。
 ベルンハードが負けたと言う、アダムという騎手……振り返った先に居たのは、フェザーの傍に立つバルバルである。
「バルバルさん、あのアダムだったんですかあ!?」
 よほどに有名なのか、ミウシャが目を白黒させて仰天している。
 高揚したスピネル夫人と対照的に、バルバルの目はしごく、迷惑そうだった。あの気の優しいバルバルが、負の感情を見せるだけで珍しい。
 彼は、手持ちのメモに何やら記し、夫人に手渡した。
「えぇ、構いませんともぉ。貴方が帰ってきてださるなら、そのような願いほど……」
 彼女はバルバルに流し目を送り、一転して冷めた目をこちらへ向けた。
「あなた。竜屋の人。帰って結構ですわ」
「あ……嬉しいけど」
 無駄口を叩くな、とレニアスからきつい目を向けられる。だが、従えない。
「バルバルさん……アダムさんは、どないしはるんです?」
「彼が戻ってくださるので、貴方は用済みですう。二度と、その狂犬をわたくしに近づけないでくださいまし。その代わり、今度のことを不問にいたしましょう」
 ルノーシャンは、ミウシャと顔を見合わせた。
 店主の身代わりになったバルバルは無論、明日からは店に顔を出せないだろう。
「ルノ。彼のお言葉に甘えて、帰るぞ」
 この幼馴染はどうしてこう、目的が達成すると、後先構わないのか。
「なら、どないする? お前に彼を助けられる言うんか」
「そないな言い方……」
「そない言い方もするわ。お前がボケかましたから、こないことになったんだ! 彼に悪い想うなら、少しはそのボケ直しぃ!」
 バルバルに力強く頷かれた。そこまで肯定せずとも。
 このまま、本当になす術なくレニアスに引きずられて帰るのか。
「冗談じゃないですう」
 一瞬、誰の声か分からなかった。
 その低く、不穏当な呪詛は、ミウシャが発したものだった。
「ちょっと、そこの、雪国に順応するにも程がある皮下脂肪の寄る年波」
 ルノーシャンの隣で、「そこまで言うか……」と感心したレニアスの小声が聞こえた。
 夫人の顔の部品が、中心に寄る。ミウシャの声も凄いが、婦人のご尊顔も、何とも……
「あら、まぁ、乳臭いお嬢さん。オムツは取り替えた? ひどい匂いよ」
「お気の毒ですう、その半径三メートルに近寄れない香水のせいで、鼻がおバカになってるんですねえ。
 それは、いいんですけど……店長さん。レニアスさん。
 悪いんですけど、同じテクト女にここまで虚仮にされちゃあ、家のマットを跨いで帰れないんですよねえ………!!!」
 ミウシャ母の教育内容を、恒間見た気がする。
 彼女は真っ向、自分の何倍も年上の妖怪を見据え、宣戦布告を行った。
「アダムさんとレース勝負ですう」
「ほっほ……面白くないジョークは聞きたくないんですう」
「私じゃないですう。この人が」
 指された、[この人]ことルノーシャン。
「ぼく?」
 驚く間に、夫人が思案ありげに唇をすぼめた。
「そう、ですわねぇ……アダムと、話に聞いた竜屋がいれば」
 捕らぬ狸の皮算用をしているらしい。
 ルノーシャンはひとまず、ミウシャを背後に庇った。
 疲労と怒りでグロッキーになったレニアスは、「誰か一人でも殺さんと腹の虫がおさまらん……」と言わんばかりの酷い顔つきだったのだ。
 しかし、夫人は結局、首を横に振った。頬肉が遠心力で跳ねる。
「アダムが八百長したら、またわたくしの元からアダムがいなくなるではないの! 冗談ではなくてよ」
 ところが、当のアダムがそれを否定した。メモに己の意志を表示する。
『八百長はしない』『なぜなら、私は彼に勝ちたい』
 勝ちたい、と―――
 覆面の奥の、真っ直ぐした視線に射抜かれ、ルノーシャンは困惑した。
 自由になるより、勝ちたいと言うのか……この、鈍くさい自分に?
 ルノーシャンは目を逸らした。
「スピネルさん。僕はひどい素人です。速翔けもしたことがないくらい。
 だから……僕が勝ったら、アダムさんと、それからベルンハードさんを自由にしはってください」
 すっかり、傍観の人と化した黒い悪魔が、名を出されて目を丸くしていた。
「よござんす。調教と飛行は別の世界ですう。やりたいだけ頑張りなさいな」
 夫人の承諾を得、またも契約書を差し出される。
 今度はきちんと、内容を隅から隅まで、裏面まで確認してからサインを刻んだ。
 伝説のジョッキー(らしい)アダムには、こういう挑戦が日常茶飯事なのだろう。契約書が、アダムのために量刷されたものなのだ。
 レースは、一月後。
「お前、何したか分かっとるんだろうな?」
 それまで黙っていたレニアスが、鼻白んだ。
「俺に亡命の覚悟までさせて、ボケの上に勝手三昧。ルノ。流石の俺も、堪忍袋の緒が切れそうだ……!」
 胸倉掴まれ、泣きたいやら、レニアスが怖いやらで、ルノーシャンは唇を噛む。主人に無体をされていきりたつ、首のカプーを宥めた。
「ごめんね、レンちゃん……けど、僕かて譲られない時もあるんやの……」
 勝手にしろとすら、言って貰えなかった。
 彼は乱暴にルノーシャンを突き放すと、レナに跨って先へ帰ってしまった。
 大勢の人の前だからと、踏み止まっていたが、限界だった。涙が零れる……
「なんー、また泣くクマー」
 ベルンハードの茶化す声が鬱陶しい。
「大丈夫ですう。どうせあの人、縋る人が店長さんしかいないんですからあ」
 あくび混じりに、ミウシャ。
「とにかく、帰りましょう……くたびれて、死にそうですう」
 気がつけば、時刻は深夜も深夜、午前二時だった。
 ミウシャの母親は、まだ若い娘がこんな時間に帰らずとも、心配しないのだろうか。
 重い気分のまま、彼女をフェザーの補助鞍に乗せ、屋敷を後にした。
 去り際、バルバル……アダムの暖かい目とかち合う。
 気をつけて帰れよと、言われたようだった。
 彼の、「勝ちたい」という意志を断片的に考えながら……居眠り気味に、家路を急いだ。

 曖昧な頭の中で古時計の秒針が響く。
 おそるおそる、抜き足、差し足。時を歩む。
 それでもいい。遅くても、止まってしまうよりはずっといい。

 翌日のことである。
 ルノーシャンは気づくと、自分のベッドで眠っていた。呑みすぎた朝のように、どう戻ったのか、記憶にない。
 いつものようにカプーとサファイアが首に纏わりついて、寝て。
 変わった点といえば、毛布の上に黒い悪魔の軍服が無造作に掛かっていたことである。
 目玉が飛び出るかと想った。なにしろ、黒衣にあるのは物騒な装備だけではない。勲章や身分証までが内臓されていたのだ。
 竜屋の金庫にだって、この上着ほどの価値はない。
 慌てて服にブラシをかけ、埃を除いていると、庭先にフェザーが一頭、姿を現す。
 寝巻き姿で迎撃すれば、スピネルのチョコベリー号(ミウシャを乗せたフェザーだ)と、予想通りの人物で。
「まったくアホなこと言い出しおるわ、こんクマはァ」
 己の軍服の上着を受け取る逆の手で、ベルンハードが軽く小突いてくる。
「貴方かて、彼と飛ばはったんでしょ。あと、すぐ返されなかった僕も悪いけど、軍服やら大事なもの、手放したらあかんよ」
「なんー。クマのくせに説教か! 生意気ー!」
 頬を思い切り左右に引っ張られた。
 朝露滴る庭先には、人目がないので、素の自分を楽しんでいるらしい。
 少しだけお兄さんに構われている気分だが、お兄さんはこんな乱暴に弄くり回さない。
「オレは客分で屋敷に入り浸うとる。アダムもあん通り、スピネルの気入りやん。
 けどな……自分、会うたことないか? 屋敷の飼育係。クマのサイン持って、女装趣味が凱旋してから、追い出されたん。泣きながら出てったわ。悲しうて泣いとったん違うど。嬉し泣きだが、ありゃあ」
 ルノーシャンは、かの飼育係を想って胸を痛めた。あの卑屈なほど丁寧な人は、竜によく好かれる、善良な人だった。ヘーゼルを心から心配していた、あの目に何の嘘があろうか。彼もヘーゼルたちを愛していたのに、喜んで出ていったと言う。
「そないに、ひどい人やの……?」
 訊ねると、鼻で笑い飛ばされた。
「才媛ったら聞こえはええがな。競竜だけと違うて、ファッション業界やら宝石業界やら、有望な成長株にえろう投資して、コネとカネを稼ぎに稼ぐバケモンだ。
 あの毒トドに噛まれたが最後、直接手ぇ出されんでも、破滅の………」
 調子の良い弁舌の途中、ベルンハードは頭をかいた。
 話が進むうち、青くなって震え始めたルノーシャンの額をつつく。
「だから、生ッ白悪魔かて言うたやん……何したか分かっとろうな、て」
 そう。いつも、そう。心配してくれるレニアスの言うことを聞かないばかりに、事態が悪化する。
「なんが、生ッ白いの、あない態度はちょぉ押し付けがましうないか?」
「白い悪魔の時のレンちゃんが、自分のこと押し殺しすぎはるだけだよ」
「そないな意味でもないが……」
 歯切れ悪く語調を弱くしたイッタ市生まれは、苦笑を漏らした。
 何で、そんなに寂しげな顔をするのか、尋ねる前に遮られた。
「話を戻すど。で、自分、フェザーで速翔でけるんか?」
「分からない……速く飛ぼ思うたことがないんやの」
 そう言うと、心底呆れた顔をされ、ルノーシャンはうつむいた。昨晩、恩師にも似たような反応を頂いたのだ。
「見てられんなークマは! 昨日のフェザー連れてきぃ。非番やら、付き合うたる」
 勝負はいいが、今日はバルバルがいないので、竜に餌をやらねば。
 ベルンハードも朝食が済んでいないと言う。水で戻した塩漬けの肉を焼き、野菜ソースをかけ、軽く炙った黒胡麻のパンに挟んだものを出した。
 彼がそれを、コーヒーで流し込む間、竜たちに餌を用意。バルバルの姿が見えないため、フェザーはついと顔をそらす。不機嫌である。
 コーヒーの香り漂う、朝食の卓にて、ルノーシャンはサファイアを抱き、人間で言うところの離乳食を与えた。机の上で野菜とゆで卵を頬張るカプーが、物欲しそうにこちらを見上げている……こんなもの、カプーにとっては美味しくないのに。
「なん……その、ごっつ可愛ぇ連中は」
 向かいで眺めていたベルンハード、伸ばしかけた指先を震わせている。
 カプーの口元を覆い、「どうぞ」と合図を送った。
「やっわらか! ぷにゃっぷにゃしとる! あったかぁ!」
「マシュマロドラゴン、言うんやの」
「そない言うんか。確か、狩猟竜だったか? 飼うのごっつ難しうて聞いたど」
「難しいよ。僕かて、いつ指を溶かされてまうか。よう、カプーを見て欲しがる人も居てるけど、一般の人にはとても無理」
「こない危ないの檻に入れんで、ええんか?」
「こっちが心底の信頼を持てば、竜も責任感やら持ちはるよ。信頼しないから、身勝手になってまうの。人に危害を加えたら、カプーと僕は国に処分されるけど」
 ルノーシャンにとっては、もう当たり前の決まりごとだったが、ベルンハードには意外だったらしい。
「竜屋はそない覚悟があるもの。軍人さんの方が大変でしょ」
 食事の終わったカプーを首に回し、今度はサファイアをベルンハードに抱かせる。
「竜の赤んぼ、はじめて触るわ」
「口元に指やらんといてね。最近、微量だけど液体窒素吐くようなりおったから」
 初見の人間にも愛想のいいサファイアは、早速、可愛子ちゃんポーズでベルンハードを虜にしてしまった。
 これがカプーには、面白くないらしい。ベスト・オブ・可愛子はいつだってカプーだったものだから、ただでさえ可愛い幼竜に、ぶりっ子されるのが癪に障るようだ。
「なん……人間の兄弟みたいやんか」
 ルノーシャンは、愛しく子らを見下ろした。
「そう。でも、世間の人は竜のこと知らない。教えれば竜が喋らはることさえ。お利口に翼畳んで待機でけて、言うとおり飛べば後を知ろうとせないの。
 スピネルさんとこの竜たち……飛ぶのが楽しうこと忘れはってた。機械みたいにレースに出されとったんだろうね」
「耳が痛いやん」
 ベルンハードが気まずげに苦笑した。
「あ……貴方のことじゃないよ。誤解せんといて」
「んん。それはええが、へーゼルの不調にゃ理由があるど。アダムが失踪して、乗うて貰えんようなったからだ」
 ヘーゼルを預かったのは、バルバルを雇った一週間後か。
 アダムが失踪したのは、それより二ヶ月前と言う。ちょうど、ルノーシャンが調教師の大会に出場して、店を開く決意をしたころだ。
「そういえば……僕、アダムさんが竜に乗らはる姿見たことない。おつかいに行って貰うたことは、ようあったけど」
「勿体ないわー。凄いど、奴が背におると竜が変わる。ありゃあ、天才だわ」
「うん。竜の扱いはプロ並だったよ。でも……頼りないとこもあらはったかも」
 少しの留守は預けられるが、このサファイアが担ぎ込まれた時の対処や、暴れるレナの対処はお手上げだったようだ。
「竜の先導もできはらなかったし……」
「嘘やん。そないの、オレかて出来るわ」
「あ……竜屋の先導は、十頭から百頭くらいの単位を言うんやの」
「あぁ、戦時に竜ごっつい数、飛ばす奴! 何モンか想うてたが、あれ竜屋なんか!?」
「うん。戦時の数百頭も飛ばさはる人は、テクトでもあんまり居てないから、知り合いだと思う」
 アホネンもそうだが、軍が軍竜を使う場合、よくSライセンスの竜屋が従軍する。
 Sランクの人間は協会に属しているし、よくアホネンに会いに来ていたので、ルノーシャンも親交があった。ベルンハードが言う竜屋は、彼らの誰かだろう。
「知り合いだと思う、て……まるでクマもでけるような口ぶり」
 言って、彼は口をつぐんだ。
「オレは何も聞いとらん。ええな」
 きつい語調に気圧され、肯いた。
「二度と、軍事関係者の前でそないボロ出すんじゃないど。クマに従軍は無理だが」
 アホネンとレニアスと、同じことを言う。
 そこまで駄目な人材だろうか。戦争に行きたい訳では、断じてないが……
「僕……そないに弱い? 竜屋は従軍しても、戦われないでしょ」
「弱い言うか、不幸を招き寄せるタイプだがな。薄幸、つうか。
 クマが無事なんは、一重に周囲の輩が、何やら手ぇ尽くしてるからやんか。昨日の様子見とれば、よう分かる。そないな奴が、戦地に行かれる訳あらんが。
 クマは、生ッ白いのの帰る場所守ってりゃ、それでええ」
 自分をクマと呼ばれるのも不服だが、生ッ白いなどと、呼ばないでほしいのだが。一面の雪原を銀と称するように、レニアスは白より銀色だ。
 レニアスの話題で、臓腑が重くなった。今度こそは、見捨てられたかもしれない。
 ところがベルンハード、それを鼻で笑い飛ばす。
「無理無理、絶対ムリ。ミウたんの言う通りやん。
 あいつにゃ、クマと手ぇ切るなん絶ッ対できん。そのうち接触してきおるから、そん時あやまっとき」
 親しい様子ではなかったが(何しろ、決闘未遂をした間柄)、ベルンハードは分かった風にレニアスを語る。
 そういえば、彼は軍でのレニアスを知っているのだ。本人に聞くと、嫌な顔ではぐらかされるので、思い切ってベルンハードに訊ねてみた。
 彼は、顎を撫で、悪戯を思いついたように黒の瞳を光らせる。
「そもそもクマは、ウルヘイルが何かも、分かっとらんと違うか?」
「えろう、強い軍隊やら……」
「強いど。オレは竜兵大隊長。いちお、少佐。
 生ッ白いのんは同いに少佐、近接魔導兵・大隊長が。若い身空だが、先の赤色テロの粛清で、首謀者を捕えた言う実績があって、上からの覚えもめでたいで」
「せきしょくてろ……しゅくせい」
 物騒な情報が、身近な人物の事として流れてくる。脳が飽和しそうだ。
「仕官学校も一緒だったが、寮に入らんのは、故郷に女でも居るんやら言われとった。ヲナゴどころか、クマやんな」
 にやにやされて、俯いた。レニアスは仕官学校時代、家族を失ったばかりのルノーシャンを哀れみ、遠くまで通っていたのだ。毎朝、早くに起きて。
 こちらの胸中は知らず、ベルンハードは先を続けた。
「ガドリン言うんは……白の癖して[ヨゴレ]の家なんだわ。
 奴の初任務やら、オレも同行したが、初っ端からヨゴレ任務だったど。盗賊農村、禍根残さず皆殺しやら。女子供、乳飲み子も、な。
 奴は、最初から最後まで、眉ひとつ動かさんかった」
 話終えると、ベルンハードは、いっそ自分の罪のような顔をしていた。自嘲気味に、口元に笑み。こちらを見やる。
「泣きよると思うた」
「ううん。本当に泣きたいの、レンちゃんやら。僕は泣かれないよ」
 泣き虫とて、泣いてはならない箇所くらい、心得ている。
 それより、辛そうなのがベルンハードだ。彼は意地悪な表情を消して、机に伏してしまった。パン屑が頬につくだろうに。
「あ……大丈夫?」
 声をかけると、彼は「ごっそさん」と呟き、頬を拭って席を立った。
「話が弾み過ぎたわ。飛びに行こか?」


***

 ミウシャは休日にだったが、昨日が昨日なので、昼過ぎに様子を見に行くことにした。
 昨晩、母も流石におかんむりだったが、「お母さんの子として当然のことをしました」と言えば、彼女は納得する。物分りが良すぎるだろうに。
 それより見物だったのが、店長である。未成年の娘を深夜に帰したことを、礼儀正しく、流暢な標準語で深く謝罪した。別人かと、まじまじと眺めてしまった。謝る人間を格好いいと感じるなど、思いもよらなかった。
 母は、娘の頑固をよくよく知っており、推奨さえしているので、「なら、責任とって、嫁に貰ったってください」と冗談を飛ばした。
「僕ではあまりに不足なので、遠慮します」
 この上ない真剣な顔で、これである。嫌味のようだが、本人はもちろん大真面目。
 彼が帰った後、ホットミルクを入れてくれた母が、彼をこう評した。
「今日び、あの若さで竜屋切り回すなんか大変なことですう。一寸でも間違えば、頭からバックリの世界ですよう。あんた、気をつけなさぁい?
 まだ開店から数ヶ月、お手並み拝見ですが、いい面構えしてるじゃない」
 ……契約詐欺に合う鈍臭さの上、泣き虫と知ったら、ああは言わなかったろう。
 愛馬のヘレヴィでまったりと、湖のほとりの林脇にさしかかる。
 ここは、店長の兄が強盗に押し入った際、あの人が逃げた林だ。レニアスに撃たれて、怪我をしなかったろうか。
「ここから、裏手の竜房の口は近いですねえ」
 と、ヘレヴィが分かる訳もないのに、問いかける。
 店長兄は、なぜ店の前から出たのだろう。
(あー、バルバルさんが裏手に居たからぁ……)
 竜は、犬と違って侵入者にさほど反応しない。が、覆面レスラーのような大男が居れば、迂回する他ないかもしれない。
 と、上空で飛翔する二頭の竜。鬼ごっこするように、旋回している。
 不審に想ったミウシャは、ヘレヴィを急かして竜屋へ滑り込む。
 カウンターで竜たちの番をする、昼間から酔い顔のサンタが、深い眉を上げた。
「んぉお、お嬢ちゃん、おはよう……こんばんは?」
「こんにちわ、ですう。店長さんは?」
「飛んどるわ。シルヴェスタのフェザーでな」
 聞き慣れない名に、首を傾げ……店長のフェザーが、竜房にいないことに気づく。
 確か、あの無愛想フェザーは強盗兄の竜だったか。シルヴェスタとは、兄の名だろう。
 ミウシャは望遠鏡を手に、庭へ出た。
 丸い視界の中、黒い悪魔と店長が、空を駆けている。黒を店長が追う形だ。
(……昨日、店長さんを捕まえに来た黒い悪魔)
 ミウシャにしてみれば、黒い悪魔は敵だった。
「あっかんわぁ。遅い遅い」
 隣でした声に、望遠鏡を外す。カプーを首に巻き、幼竜を手にしたアホネンが、危うい足で教え子を眺めていた。
「ルノにゃジョッキーの才能なんか、あらんわ。絶対的に勝つ言う情熱がない」
「……無理ですう?」
 ルノーシャンが負ければ、今度こそ、彼は雪だるま女王の囚人になってしまう。
 アホネンは眉を片方上げ、灰の瞳を見せた。悪戯小僧のように、笑う。
「たまにゃあ、負けたらあかん状況があったがええ。
 シルヴェスタでなくとも腹っ立つでェ、あんの小僧。性格が可愛くなけれぁ、とうの昔に追んだしとったわ。ほっほう!」
 とても、教え子に対する言葉とは思えない。
「ま、勝うて貰わにゃ、元が取れんが」
「アホネンさん、賭けをしたんですう?」
「賭けもなんも、昨日の今日ででけんわ。オーナーのことよ。
 競竜言うんは、主催と牧場長と竜主にジョッキー、それを雇うオーナーが要る。
 ルノが一人で出来んこともないが、例の年増にレース自体抱きこまれとったら、試合にならなかろ。しゃあないから、わしがやるのよ。当然、金もえろうかかる、破滅すんのは師弟ともどもだわ」
 もっとも、と彼は付け加えた。
「勝ちゃあ大金が入る。だからこそ、その年増かて、ええ竜屋つかまえたろ思う訳だわ」
 ミウシャは、高い空を仰ぎ見た。
 実は、一年ほど前にアダムのレースを見たことがある。竜を見たさに、入場料だけ払って友達と観戦しに行ったのだ。
 アダムの竜は、羽がぴんと伸び、縦横無尽に空を翔った。
 店長のフェザーは……アダムの飛翔と比べるのもおこがましい様子である。
「ほっほう。ま、こちとらジョッキーのコーチのコネもある、裏技もある。伊達にウン十年、竜屋やっとらんわー、わしかて」
 ルノーシャン側の強みは、そのコネと竜屋の腕だろう。店長は確かに、バルバルより優れた竜屋だ。それは、素人目にも確かだった。
 とはいえ、ピアノ職人が、ピアノを弾けるかと、言うと……?
 アホネンは疲れたか、竜房を背に腰を下ろした。うたた寝のカプーを膝に抱く。
「ま……あのフェザーで飛べおる自体が、あの小僧の嫌味よ。
 あのフェザーはな、今も昔もルノの奴を嫌うとる」
「うん、うん、ミウも変だなーって思ってました」
 ルノーシャンは、気難しい竜とさえ、すぐに打ち解けてしまう。どうして何年も一緒にいるのに、飼われているフェザーが懐かないのか。
「嬢ちゃん、兄弟は居るかえ」
「姉と、弟がいますう」
「そうか……嬢ちゃんのお母は、弟が生まれた時ァ、大変だったわな」
「そうなんですう! 小さい頃は、ミウだってお母さんに見てほしかったのに、ジンちゃんのことばっかり………」
 言葉を酸素と飲み込んで、もう一度、不恰好に飛ぶフェザーを振り仰いだ。
「あのフェザーにとっちゃ、ルノは主人の愛情を奪いおる、邪魔者なんだわ」
 カプーが、サファイアにやきもちするように。
 ミウシャがかつて、弟にやきもちしたように。
「そんで、あのフェザーの[主人]は、弟を可愛がりながら憎んどった……主人も己も忌々しう思うものを、好かれる訳もあらんわ」
「わたし……お兄さんを見たことがありますう」
 ミウシャは、見合い騒ぎの出来事を、アホネンに語った。
 真実が知りたかった。レニアスの言う通り、人間の屑なのか。はたまた、ルノーシャンの言う通り、照れ屋なのか。
「どっちも正しい。どっちも間違うとる」
 眠たげな掠れ声で、アホネンは髭の奥の唇を動かし続けた。
「物事は多方面から見ても、解釈次第でどないにもなる。真実やら曖昧なモンは、どこにも存在せんわ。
 ま……、一つ言うたら、その店へ盗みん来たのは、おかしうこったで。今の奴の懐は、ルノより遥かに潤っとんのよ。奴には弟の金盗む必要があらんのだわ」
 ますます分からなくなった。
 なぜ、豊かな経済状況で、こそ泥の真似をしたのだろう。彼はみすぼらしい格好をしていた。
 わざわざ[恵まれない自分]を装う必要は、どこにある?
 漸く、庭に降り立ったフェザー二頭に手を振りながら、ミウシャはアホネンを見やる。
「その口ぶり……アホネンさん、お兄さんの所在、ご存知ですね?」
「どうかのう。ほっほう!」
 ライダーたちは、少し離れた場所でじゃれ合っている―――というより、ルノーシャンが一方的に、黒い悪魔に弄られている。
 それこそ、仲の良い兄弟のようで。
「あの人、悪い人ですよねえ? どうして……」
「お嬢ちゃん、さっきも言うたろ」
 何が、と視線で訊ねれば、彼は髭をしごいて笑う。
「真実やら、そないにも曖昧だ言うことだわ」

 恩師が呼んだコーチによる訓練の日々の合間、ルノーシャンは帰郷した。
 負ければ、母の墓参りも易く適わなくなると、慌てて時間を割いたのだ。
 南のシアンリハと違い、北西のペルナ市は大層、冷え込んだ。それでも、冬の厳しさに比べれば温暖ではある。
 母は、今は誰もいない実家の裏にひっそりと葬られている。
 アルヴァル教で厭われる姦淫の罪人として、元娼婦の母に温情なく、墓地に墓を立てさせてもらえなかったのだ。
 母は、教会にこそ行かれなかったが、敬虔な信者だったように思う。
 眠る前には今日を生きた感謝を捧げ、目覚めた時には今日を生きる喜びに感謝し、人として最も恥ずべきことは、恩知らずであると、教えられた。
 林に臨んだログハウスを回り、なおざりに誂えられた墓へ、スズランの花を一輪だけ手向ける。
 兄が去り、二人だけになって、母は少しだけ、素直になった。
 給料を母へ渡さなくなって、彼女はひどく怒ったが、母の治療費として先に払ってしまったと告げると、急にしおらしくなってしまった。
 だが、何度か通院しただけで、頑なに医者へ罹らないと言い、控えていた酒を煽るようになって。
 医者は、元娼婦の母を、汚いものを扱うように診療したと言う。
 あの人は、人に裏切られて生きてきた人だから。兄の言葉の真意を知った。
 そうして母は、治療を拒み、やがて息を引き取った。死因は急性アルコール中毒と診断されたが、もともと母の身体は参っていたのだ。
「お母さん……僕、遠くでお店持ったの。レンちゃんが居てる街だよ。お兄さんはね、この前、うちに来はったよ……元気かは分からないけれど、大丈夫。お兄さんは僕と違うて、しっかりした人だから」
 墓石に額を預け、瞑目した。風が舞い、苔と林の空気が鼻をくすぐる。
「あれから随分たつね。お兄さんと、お母さんが居のうなって……」

 母が死に、兄が失踪した頃、他の牧童から石を投げられるようになった。
 それまでも折り合いは悪かったが、兄が居て実行できなかったのだろう。
「人に取り入るんに余念ないなぁ? 母ちゃんと一緒で、ケツでも振っとるん違うか」
「ガドリンの御曹司は一緒でないんか? レンちゃーん、だろ? っはは」
 彼らは、ルノーシャンに怒っている訳ではない。竜医のトニエルと、ガドリン家のレニアスに構われず、寂しいのだ。
 往診から帰ったトン先生は、異国の珍しいお菓子をくれた。
「あ……他の子には、おみやげやら……?」
「他? なん、わしが他のんに土産やらにゃあかんのだ」
 そう言って、彼は短い髭でほお擦りしてくる。
「お髭、くすぐたいよ……」
 トン先生には、本当の孫のように可愛がられている。けれど、他の子にしてみれば、面白くないだろう。
 仕官学校から、レニアスが帰ってきた。
 日に日に逞しい顔つきになってゆく年上の友人に、頼もしさと、不安を覚える。
 強くなるのは良いこと。だが、彼が自分を見失ってしまわないか。ルノーシャンのことを忘れてしまうのではないか……それが怖かった。
「あのね、トン先生から、お菓子貰うたんやの。はんぶんこー」
「か、菓子やら言う年でもないが……まぁ、貰うとく」
 チョコレートの金紙を眺め、ふと彼は表情を曇らせた。
「ウルヘイルへの就任が決まった。今度こそ、ペルナを出ることになる。俺の母も言うとったが、お前……養子に来んか」
 その誘いは嬉しく、そして悲しかった。身内になることが、かえって溝を作ると感じた。
「僕……裕福なお家でやっていかれないよ。お作法だって、なってないもの。
 大丈夫、一人でもやってける。アホネンさんやトン先生も居るし。そないに心配せんで」
 レニアスと別れた帰り道、何度も足が止まった。帰っても、もう誰も居ない。レニアスが居なくなったら、ペルナで本当に独りになってしまう。
 憂鬱な気分で、扉を開けた。「ただいま」と言ったのは、習慣だ。
「おかえり」
 見知らぬ男が何人もくつろいでいた。
 突きつけられた莫大な額の借金と、自分が保証人の証文。
 利子は一月で一割だ、と告げられた。竜を一頭買える値段が、一月ごとに増えてゆくと言う。眩暈がした。
 今月分を請求されたが、母の治療や葬式やらで、貯金がなかった。
「付近で聞いたが、母親は娼婦だったってな。あの男の弟だから、どんなデカブツかと思えば、ペルナらしい容姿じゃないか。母親と同じ仕事をしてみるか」
「あ……僕、竜の調教師で、Sランクの免許があります。そないな仕事より、稼ぐから、それだけは、いや……」
 何とか説得し、急いで牧場へ帰った。
 払いのいい上客を取って、荒稼ぎをはじめたので、仲間には金の亡者と呼ばれた。
「そうだよなぁ、金蔓のレンちゃ~んが居のうなってしもうたしなあ」
 レニアスは既に、シアンリハへ行っていた。借金のことは知られても、取り立ての酷さは伏せていた。
 どんなに頑張っても、利子に手一杯で元金が減らない、という状況が二ヶ月続くと、借金取りがいい顔をしない。
 三ヶ月目で、「次もこうなら、本当に売り飛ばす」と脅された。
「竜とガキの好事家は、結構いるんだよ。話を持ちかけたら、高値がついたぜ」
 その後、プレッシャーを与えるためか、借金取りが毎日来た。泊る日も多く、寒がっては酒を呑み、世話を強く。気に食わないことがあれば、力任せに暴力を振るわれた。
 人の気配と、足音に怯える日々。赤の他人の、大人の男に支配される時間は長く、えぐるように精神を蝕む。
 五感が薄くなり、果てには時間の感覚が失せた。
 気がつくと、アホネンに保護され、レニアスが傍に居て。
 証文を見せられてから、一年も経っていた。

 風が、髪を撫でた。母の手を感じた。ルノーシャンは微笑み、墓石から頬を離す。
「僕、お兄さんのこと好きだけど、すこしだけ恨んどる」
 笑う口元が震えた。
「借金のことは、ええの……それより、あのとき一度でも、来てくれはったら」
 母の墓前で、決して涙を流さないと決めたのに。しょせん、ところ構わず、ワンタッチで飛び出る涙らしい。
 ああ、馬鹿馬鹿しい。女々しくて反吐が出る。
 男の子なんだから、強くなりなさい、誰よりも。母の言葉が偲ばれる。
 ひとしきり泣いた後、手の甲で目元を拭った。
「僕、競竜のレースやら、出ることになったよ」
 ベルンハードには、さんざ阿呆呼ばわりされたが、挑戦に後悔はない。
 自分のせいで不本意な居場所へ戻ったバルバルと、窮地に立っているベルンハードを助けたかった。
 指をくわえて悩むなら、進んだ方が良いと、鉄火なテクトお嬢さんから学んだのだ。
「みんな、僕が負けるて思うてはるけど、負ける気はないよ。待ってはる人が、たくさん居てるし。それって、すごく幸せなことやの」
 一度、孤独の淵を知った身には、今という時が温かい。
「頑張って来る」
 ついた膝の湿った土を払い、立ち上がった。
 表に繋いだフェザーが、退屈でふて腐れている頃だろう。


***

 土埃で視界の悪い、控えの竜房で、ちょっとした騒動があった。
「酒くさっ!! この竜、酒くさぁ!」
 そんな検査の人間の言葉を、何のことやら、とルノーシャンは覗き込んだ。
 酒臭い。狭い控え房に、匂いだけで酔いそうなアルコールがこもっている。
「ヴ……ヴフェファファファ」
 匂いの元たる、千鳥足の―――
 我が相棒の姿。
「ちょっと、アンタ! 竜主でしょ!?」
 肩を揺すられ、ルノーシャンは半ば呆然と泥酔した兄のフェザーを見上げる。
「酒、飲ませた!?」
 ルノーシャンは目を見開いたまま、首を横に振った。それはもう、高速で。
「だ、だよねぇ。レース前に、竜に呑ませたって……ドーピングにもなりゃしないし」
「おい、犯人捜して来い! こりゃ立派な犯罪だぜ」
 検査士が指示を飛ばすのを、ルノーシャンは慌てて止めた。
「ごめんなさい。心当たり、あります。たぶん、オーナーが……」
 アホネンの仕業だ。間違いない。あの二日酔いサンタは時折、竜に酒を与える。
 この勝負時に、なぜそんな真似をしたかは、知れないが……
「とにかく、もう時間がない」
 土だらけの袖から覗く、毛むくじゃらの腕と時計を見下ろし、検査士がこちらを向く。
「棄権しますか?」
 普通に考えれば、棄権だろう。この調子で飛べる竜がいるなら、お目にかかりたい。
「ヴォ……ヴォフー!(飛ぶ」
 無愛想フェザーが、飛ぶ、と何度も喚いた。
 どうやら、大嫌いなルノーシャンのことさえ、識別できないらしい。肩口に顎を寄せて、甘えてくる……あの冷淡なフェザーが。
 ルノーシャンは、唇を噛んだ。アホネンは超一流の竜屋だ。何か、策あって酔わせたに違いない。師を、信じた。
「と……飛びます!」
 くたんくたんと足を動かし、ハーネスを引かれるままに歩くフェザー。
 検査室を抜け、客の喧騒が近くなる入場口を目指した。
「かぺっ」
 会場に一歩踏み出したとたん、慣れた鳴声と質量が肩に降る。
 その物体を確認するよりも、ルノーシャンは付近の客席を見上げた。
 酒瓶を片手に、へべれけサンタがにんまり笑って見せる。
「ぐっど、らぁっく」
 出場する前から、どっと疲れた。
「店長さぁん! 頑張ってくださあい! ミウは、信じてますうー!」
 アホネンの太い影から、ひょいと現れた少女に、手を振った。癒される思いだ。
『第一コーナーより、世界最年少Sランク取得の、凄腕トレーナー登場!』
 歓声が轟いた。自分は、そういう触れ込みらしい。誰が調べたのだろうか。
『第二コーナーより、テクトの風ヘーゼル&伝説のジョッキー、アダム!!』
 観客が総立ちした。
 あます個所なく、アダムコールが炸裂している。観客にとって対抗者の自分は、引き立て役に過ぎないのだろう。アダムは大変な人気者のようだ。
 そんな人が、何ヶ月も自分の店の従業員だったなど……俄かには信じがたい。
 アダムは背筋をしゃんと伸ばし、ヘーゼルと共に会場の真ん中で待ち受けていた。
 ルノーシャンのほうは、あまりの観客の人数に、早速へたれかけている。調教師の大会と違って、競竜は娯楽だ。盛り上がりが違う。
 審判らしき人物が、駆け寄ってきた。
「その、狩猟竜は?」
「すみません……ついて来てもうて」
「かっぺぇー」
 恐縮すると、審判は頷く。
「構いませんよ。ただし、上空で受け取るチェックポイントのボールはご自分の手でお願いします。選手への攻撃はしないように。コースには監視員がおりますので」
「しません。そないこと、ルール以前に犯罪です」
 始点へ着いて、固定具を人に確認して貰う。レースでは、アクロバットを披露してスタートになるので、特殊な固定具を使用するのだ。
 改めて、レース会場を観察する。
 スタート地点の背後をくるむように、円形の客席がある。前方は果てしない草原、その向こうに森が広がっていた。
 その先を、何十キロと飛ぶ訳だ……ご機嫌のフェザーを見下ろす。不安だ。
 魔動拡声器が何やら叫んでいたが、殆ど理解できなかった。フェザーと一緒に、場に悪酔いして、胃が溶けそうである。
 ふと、数メートル先でスタートラインに立つアダムと目が合った。
 彼は、ルノーシャンが過剰に緊張しているのに、気づいたよう。己の胸に手を当て、大きく深呼吸してみせた。
 真似てみると、少しだけ、身体の中で暴走する血流が落ち着いた。
 アダムは頷き、覆面の奥で優しく笑んだ。
 何でそんなに、見守る親のような顔をするのか。
 何故、ルノーシャンに勝ちたいなどと言ったのか……
 前方に立つ審判が、旗を振り上げる。
 終わったら、聞いてみよう。アダムのことを、全て。


***

 ウルヘイルとは、五千の兵を擁する、特異な魔動師団である。
 彼らはグレイッシュ・カラーの軍服を身に纏い、派閥によって白か、黒に別れた。
 師団長・少将だけが中立の立場だが、名ばかりの飾りと言って過言ではなく、師団は漆黒と純白の将校によって支配されている。
 本来、ウルヘイルの編成は短期の見通しだった。しかし、その殲滅力たるや凄まじく、世界最高の火力を有する魔導機関エルリムを撃退したことで、世界に名が轟いた。
 以降、その水準を要求され続け、テクト南部の都市シアンリハ郊外に、基地を構えている。
 近年は、南のアンナセン国との折り合いが悪く、一触即発の雰囲気であり、アンナセンと隣接するウルヘイルは、警戒を強めている。
 会議の後、レニアスは寝不足の頭を抱えて一人、舌打ちした。
 なぜ、こんな時期に、[あれ]はあんな厄介事を起こすのか。突っぱねたのはあれの方だ。いっそ、無視してやろうか。
 何度も同じ思考を繰り返す。不機嫌に軍靴を鳴らしながら通路を進み……基地の倉庫前で、溜息した。
 気がつくと、外出許可を得、例の会場まで足を運んでいた。
 耳鳴りがする高揚した客席の通路から、フェザーで待機する、あれの姿を見つける。
「あの細い人、業界じゃ有名らしいよ」
「そんなことより、アダムだよアダム! 復帰するなんて感激だ」
 他愛ない談話の群体。その中に、雑音が混じった。
「やぁっぱ来とったか」
 声の主を見ないよう、立ち去ろうとしたが、回り込まれる。
「なぜ、俺の居場所を」
「遠目でも分かるがー、ウルヘイルの奴の、独特なオーラやら」
 鬱陶しい。あれが馬鹿げたレースに出場することになったのも、アダムだけでなく、この男を庇ったからである。
「なぜ……どいつも、こいつも」
 苦々しく、会場を見入った。
「俺の箱庭を、そっとしておいてくれないんだ……」
 目の届く場所で、平和な生活を送って欲しいだけなのに、そうあった試しはない。
 母親は虐待する、兄貴は弟を借金のカタにする。
『タスケテ ボクノ ナカノ ジカンガ ススマナイ』
 三年前、奇妙なメッセンジャが届いた。本人には送信の記憶がないらしい。なけなしの気力で送ったと思われる。
 急いで帰郷し、あれの変わり果てた姿を見た怒りは、未だ醒めやらない。
 最近、独立して店を持ち、良い従業員に囲まれて、やっと、レニアスが望むくらいの穏やかな暮らしになったと言うのに、この始末。
 あれは何かに、呪われているのか。
「何を悩むことがあんねな」
 イッタ訛りを、訝しげに見やる。
「クマが負けたら、連れて逃げてまえ。それでええやんか」
「……ウルヘイルの者が言う台詞か?」
「残念。オレは黒い悪魔の前に、ベルンハード言う人間なんだわ」
 会場の熱気で、脳が溶けたか。
「そない、知りとうないこと教えられてもうた……どないしてくれんだ。どないしてくれんだが。どないもしてくれん癖に」
 愚痴のようにぶつぶつ唱える姿に、レニアスの勘が働いた。
「あれに、何を言われた」
「なぁんも……ただ、聞いて貰うただけが。オレの声やら……何やら。この一ヶ月な。
 こうは言うとった。『白い悪魔の時のレンちゃんが、自分のこと押し殺しすぎはるだけ』てな」
 顔から火を吹きそうだった。脂汗が額に浮かぶ。
 あの、脳みそ花畑バカ。よりによってこの男に……
「ぶっ、じっ自分、顔真っ赤やん!」
「わら……笑うな………」
「どもっとるー!」
 私怨で殺意を覚えた。
 だが、笑うことをやめた黒の悪魔は、再び幽霊のような表情に沈む。
「なんが………オレなん、心底惚れた女にかて、そないに言うて貰うたことはない……」
「当然だ。悪魔だから価値がある。俺も、貴様も」
「ズルイで……お前………」
 自分だけ、人に戻る場所を確保しながら、悪魔に扮する卑怯。確かに卑怯だ。レニアスは、盛大に失笑した。
「元来、悪魔とは、卑怯で狡い存在のはずだ」
 同類に謗られる謂れはない。
『スタート!』
 いつの間にか、レースが開始されていた。
 レニアスは競竜など初体験だが、どうやら、すぐに競争になる訳ではないらしい。
 アダムのフェザーが、ツバメのように空中を何度も宙返りした。
 対して、[あれ]のアクロバットの酷いこと……
 しかし、数瞬後にはレニアスも観客も気づいた。酷いのは、騎手の腕ではない。竜の様子だ。
 飛翔どころか、ろくに翼もはばたけていない。ストリームなどの技を極める度に、落下しかけているではないか!
『停止を――停止を呼びかけております! 危険です!』
 こうなると、客の安全が優先だろう。
 しかし、ルノーシャンのフェザーは止まらなかった。
「あいつ、やっぱ凄いわ。ようも、あの調子の竜で騙し騙し飛べおるもんだが」
 暢気な感想を述べる黒を置いて、レニアスは踵を返した。
 ところが、その腕を掴まれる。苛立たしく振り払おうとしたが、相手の握力に適わなかった。
「信じてみ。お前の箱庭は、それほどヤワと違うど」
 足を振り上げる。黒は腕を放し、跳び退った。
「あっぶなー! おお、お前、男の急所狙うたな!」
 狙ったとも。だが最早、興味はない。
 アダムはとうに技を極め終え、会場から飛び去った後だった。
 空の監視員も、おぼつかないアクロバット中のフェザーに、近づけない様子である。
 フェザーが落ちる度、客席から悲鳴が上がった。レニアスも卒倒できそうだ。
 漸く、技を極め終え、よたよたとコースへ狙いをつける。監視員が竜で寄り、説得している様子が伺えた。
 ルノーシャンは、それにも応じなかった模様。
 失格になりそうな雰囲気だったが……予想だにしない事態が起こった。
「なんが……!?」
 ベルンハードの驚嘆に、レニアスも同調した。
 スパートをかけたフェザーが、竜にも有り得ない速度で、瞬く間に会場から姿を消したのである。


***

(なになになに……何やのー!?)
 一方、騎手もあまりのスピードにびびっていた。
 フェザーの結界が適当なので、己で張り直したのだが、それでも風当たりが辛すぎる。肩のカプーにも術を手伝って貰って、やっとまともに呼吸できた。
 弾丸の如く翔け、翔け―――あっという間に、先行したアダムの背に追いついた。
 考えうる要素はひとつ、酒である。
 流石、と称える気はないが、アホネンの長年の経験に基づく裏技なのだろう。
 制御も何も、振り落とされないようにするだけで、至難の業だった。
 ついにヘーゼルを越した。すれ違いざまのアダムが、驚くというより「ぽかん」としていた。そりゃ、そうだ。
 森の上のターニングポイントである。速度を緩めなければ。
 だが、「ヴェーハッハッハ」と哄笑して夢見心地のフェザー、止まらない。
「止まって、止まるんやの………」
 竜笛さえ、効かなかった。ルノーシャンは幾度も、フェザーの首を叩く。
 だんだん、腹が立ってきた。こめかみに青筋が立つのが分かる。
「皮剥かれたいんか、フェザァー!!!!!」
 カプーが「ぎゃあ!」と悲鳴をあげ、縮こまった。
 さしもの酔っ払いも、皮を剥かれては堪らないと思ったようで、すごすごとターン。
 ところが、先ほどまでの威勢がない。
 チェックポイントに待機する、竜のライダーからボールを受け取らねばならないのだが、高度が定まらずに四苦八苦。
 何とか手渡し完了したものの、速度が出ない。
 燃えつきてしまったらしい。
(ど、どないしよう……)
 このままでは、確実に負ける。
 ちらと、肩口で未だに怯えているカプーを見やる。
「カプー。麻痺毒」
「かぺ?」
「早く! フェザーに麻痺毒を吐くのーっ」
 命令されるまま、カプーは喉を膨らませ、痰のように毒をフェザーの首に吐いた。
 酒に、毒。フェザーが死ぬような気もしたが、一蓮托生、三千世界の烏を殺し、ぬしとヘヴンズ・ゲートをくぐろうじゃないか。
 ルノーシャンもまた、酔っていたのかもしれない。
 竜の皮膚は丈夫なので、毒は遅行する。
 身体の感覚が麻痺してくると、翼が動くようになったらしい。
 先ほどの速度はなかったが、コーチに教わった通りに拍車をかけ、身体を倒すと結構なスピードが出た。
 まだ、フェザーの翼が活動するうちに、限界まで上昇しておく。
 アホネンに人には言えない裏技があったように、ルノーシャンにも奥の手がある。
 とは言え、師ほどに突飛ではない。
 大きく息を吸い、叫んだ。
「あない所に、シルヴェスタお兄さんが居てはる―――!」
「ヴァファファ!?(マジで?」
 効果は、抜群である。
 滑空するフェザーの速いこと。
「ヴァファ、ヴァファ……」
 発音こそ悪いが、確かにフェザーは「マスター」と連呼していた。居もしない主人に恋焦がれて天翔ける竜の姿は、憐れだった。
 再び、アダムに並ぶ。レース慣れした彼の飛行は、淀みがない。ヘーゼルには、ラストスパートの余力があるだろう。
 選手の帰りを待ち侘びる、客席が見えてきた。
『並んでいる、あのアダムとまったくの互角―――!』
 そんな実況が聞こえてくるが、互角ではない。
 ルノーシャンのフェザーは、落下しているだけなのだから。
「やめろ! 止まれ!」
 背後から、悲痛な声がする。
(その、声………?)
「地面に叩きつけられたいのかぁ!」
 叱責の声。
 それは、……その声は。

 とても耳に馴染み深い、声だった。

 瞼を開くと、左腕が妙な方向へひしゃげていた。
「かぺーっ、かぺー!」
 柔らかいものに右手をつき、起き上がる。左腕以外は、無事だ。
 カプーが最大まで膨らみ、フェザーのクッションになってくれたらしい。
 怪我をしたのは自分だけで、フェザーは己の足で地に立っていた。酔いが醒めてきたのか、こちらには見向きもしない、いつものフェザーである。
「無事か!」
 主人を労わるように巨大化したままのカプーの元へ、数名の人間が駆け寄ってくる。
 担架に乗せられながら、必死でヘルメットの男に動く方の手で縋りついた。
「試合は……?」
「動くんじゃない!」
「どないなったんです?」
「ああ、うるさい!」
 救急員らしき中年は、怒鳴り散らした。
「君の勝ちだ! 確かに、ゴールは君が切った!」
 と、傍らに大きな影が落ちた。
「無事、か……?」
 引き攣ったその声に、顔を上げる。
 マスク男のバルバルが、覗き込んでいた。覆面の奥の澄んだ目は、今にも泣きそうで、まるで自身の死に直面したかのように、呼吸が引きつっている。
「お兄さん……お兄さんなんでしょ!?」
 救急員を押しのけようと、手をつっぱるが、左腕が痛んで呻いた。
「動かないで、腕が……」
「お兄さん、お兄さんたら」
 夢中で呼んだ。涙が浮かんだ。
 痛みと涙でぼやける視界の中、覆面男は立ち上がる。
「お店を開けてからずっと、僕の傍で、見守っててくれはったの……?」
 返事は、なかった。
 シルヴェスタは弟に背を向け、黙って、会場を後にした。


***

 薄暗い、非常口への通路を歩く。
 中で何が起きているかも知らない警備員たちは、こちらを構う素振りもなかった。
 臨死体験の出口のごとく、眩しい光の差し込む開け放たれた入り口へ、一歩踏み出しかける。
「辞表は出さないんですう?」
 肩が不自然に強張った。
 彼女から見て、逆光を浴びながら振り返る。
 砂糖菓子のように愛らしい少女が、笑み、舌を出す。
「フェザーちゃんが墜落して、レンちゃ~んが真っ青で会場に飛び降りて来たんですう。店長さんはカプーちゃんのお陰で、頭を打った訳でもないみたいだったし、来ちゃいましたあ」
 聞いて、苦く笑み零れる。
 かの「レンちゃ~ん」に正体がばれては、殺されてしまうかもしれない。
「君には本当、えろう世話かけてしもうたなぁ」
「バルバルさんのペルナ訛りって、何だか新鮮ですう。そうですよねえ、店長さんやレニアスさんと同じ故郷ですもんね」
 くすくす笑ってから、彼女は。
 外の光で眩んでいるだろうに、視線をきっかりこちらへ合わせ、真っ向、見据えてくる。
「ちゃんと話さずに行ってしまうんですう?」
 それは太陽よりも目を焼く、何より純粋で、強い視線で。
 思わず、逸らしてしまった。
「店長さんは待ちますよ。ずうっと、帰らないお兄さんを待ち続けますよ」
 吹雪の日も、嵐の日も、竜の面倒を見ながら、一生涯。
「結婚して子供が生まれて、子供が大きくなって孫が出来て、死の床でお兄さん、帰って来てくれはらなかったなぁ、とか呟かれたいんですう?」
 具体的すぎる。
 そして、あの弟ならやりかねないと、思わず噴出した。
「笑いごとじゃないですう!」
「笑い事にしかならんわ」
「そ、そ、そういう言い方って、良くないですうっ」
 頭から湯気が立ちそうに、拳を振り回すミウシャ。
 少しは、目を合わせやすくなった。
「笑い事にしかならん、あないな一途な馬鹿は。憎んで忘れりゃええのに、忘れる努力も見られん」
「お金盗んだの、やっぱりバルバルさんなんですね」
「あれか。あれは竜房の奥にある。一シリアルも使うとらん」
 使ってはいないが、あの時点のルノーシャンにとって、懐が痛いだけの額を奪った。
 店と裏手の林は、ミウシャらの歩いていた道から一部が重なって、見えなくなる。そこを駆け戻れば数秒で竜房に戻れるのだ。服は上着を被り、重ね履いたボトムを一枚脱いだだけ。
「アホネンさんに言われた。会うなと言われた。昔の傷えぐって、どないすんねと叱られた」
「バルバルさんが出てっちゃったことですう?」
「もう、良かろう」
 かぶりを振り、踵を返す。
「君も、ルノーシャンも……達者で」
「何も話さずに行くなら、刺しますよ」
 異質な単語を聞いた気がして、しかし身の危険を感じ半回転した。
 見れば、サンタガールが刃渡り二十センチ以上はある、肉厚の鉈をぶら下げている。
「園芸用のがそこに放置されてたので」
「け……警備員!」
「無理ですう、さっき、痺れ薬の入ったクッキー美味しそうに食べてましたからあ」
 可愛いはずの笑顔に、恐怖しか覚えなかった。
「女の子の嗜みですう。シアンリハはけっこう物騒なので、しつこく迫られたら必殺お菓子攻撃ですう」
 砂糖菓子のようなテクト女には、猛毒がある。
 ストーカーのように愛されたスピネル夫人にだって、鉈と笑顔で迫られたことはない。せいぜいが果物ナイフだ。
「何も、今すぐに会えとは言いません。だ、け、ど、ミウは貴方たち兄弟と、アホネンさんの次に接して来たと思うんですう。
 事情も聞かずに去られちゃあ、立つ瀬がないんですよう」
「何も、君が、そない、まで、思いつめる必要は、ないんだ、ないんだよ」
「一途さだけなら店長に負けませんよ」
 嗚呼、そうだ。
 死ぬとかその後とか、彼女にとっては瑣末な問題なのだった。誰より己が知ってるはずだったのに。
 いつか本当に、取り返しのつかない事件を起こすのではないかと不安を感じたが、今その取り返しのつかない事態になりかねない。
 辛く顔を歪めながら、何とか吐き出す。
「どないな面下げて、何を話せばええ?」
 我ながら、子供の駄々である。
「どないな顔でもいいんですう。一度お顔見せれば、納得するに決まってますう!」
「君が思うほど、事は簡単ではない。本来、俺が会いとう思うても、来るべきではなかった。俺がルノにつけた傷は、多分、本人が思うよりもっと深い。
 あいつ、覚えとらんようだが、借金のカタに売り払われて、逃げ出して来てん」
 都会へ出て、のぼせ上がり、馬鹿な賭けをして莫大な借金を負った。
 思えば何もかもが限界だったのだろう。
 癇癪持ちの母と泣き虫の弟の世話、何があるでもない退屈な田舎町。
 大人の男になりつつあり、好奇心旺盛な時期のシルヴェスタには辛い環境だった。
 そして、何千回と口論しても弟への虐待をやめない母を、捨ておけないと感じ、もういっそ殺してしまおうかと思い詰め刃物を握った。
『報いなのね』
 酔いが醒めない顔で、夢を見るように母は笑った。
『チェストの中に、お金があるんよ。ルノに、渡して欲しいの』
 我が子の給料を、みな酒に替えてしまうような母が、弟のために貯金をしていたと言う……
 殺せる訳がない。シルヴェスタはそのまま、荷物を担ぎ、逃げるように家を後にした。
 相棒のフェザーを置いて出ねばならないのは痛恨だったが、このフェザーに乗っていた杵柄で、レースでは良い成績を連発。向かうところ敵なしの天才ジョッキーと目され、都会へ出たばかりの若造は、すっかり舞い上がった。
 己が負けることなど考えもしない。また、負けても失うものはないと思いこんでいた。
 愚かな賭で莫大な借金を負ったが、スピネル夫人に保護されながらレースに出場し、順調に返済が終わる。たった一年で城が建つような額を稼いだ、それも華やかな舞台で。
 軟禁が解かれ、懐も暖かいシルヴェスタは、ふと。
 ふと家族を思いだした。
 帰りはせずとも様子くらいは窺うべきだ、母はもう、長くないはず。
 長らく留守にした気がする、懐かしきさびれたペルナの町を、鼻歌混じりに闊歩して、まず、弟が今も精を出して働いているだろう牧場へ出向いた。
 恩師のアホネンは、シルヴェスタが都会へ出ると告げた時にも、「若い時にはそれがいいさ」と笑って見送ってくれた人物である。
 彼へ挨拶と近況報告をすべく出向いたところ、酒瓶を投げつけられた。
『ようも、ここへ顔を出せたもんだ』
 陽気な二日酔いサンタは、老いてなお逞しい肩を震わせ。
 皺に窪んだ瞳で、蔑むように元教え子を睨み据える。
『おめぇの居ねぇ間に母親は死んだし、おめぇのこさえた借金のせいで、ルノは借金取りに追われ、二ヶ月も行方不明になったんだど。
 若ぇ内に世界を見ろたぁ言うたが、誰が家族を顧みるなと言うた!?
 ルノはここ一年のことを覚えてねぇ。覚えてらんねぇほど辛い目に遭ったからだッ! おめぇが気安く会ってええ相手じゃあねぇよ』
 愕然とした。
 シルヴェスタは、弟が居ることすら吹聴したことがない。自分の与り知らぬ内に、弟の身に災いが降るなど、夢にも思わなかった。
 先に眺めるだけ覗いた竜房では、マシュマロドラゴンの幼竜を頭に乗せ、前と一分の変わりもなく元気な弟の姿があったのに。
 アホネンは切々と、弟がギャング風の男に怯えること、以前よりもっと不用意に泣くようになったこと、深夜に牧場へ訪問することが多くなったので、幼竜を与え、牧場に住まわせていることを伝えた。
『やっと、落ち着いてきおったとこなんだわ。
 悪いことは言わん、帰れ。ルノが一年の内にあった何かを、思いださんように』
 牧童の面倒を見る義理などない筈のアホネンに、そこまで言われては引き下がる他なく、弟には声も掛けずに故郷を後にした。
 もともと、親兄弟を捨てたようなもの。飛び出した時には、二度と会えずとも構うものかと意気込んでいた。
 それを、貫くべきだろう、ほかならぬ、あの子が笑って暮らしているのなら……
「馬鹿みたいな話さ。そないに捨てて、二度と会わんと決めたのに、店を一人で持つ言うの聞いて居ても立ってもいられんようなった。
 店もったら竜の相手ばっかしてりゃええ言うもんじゃないし、シアンリハはウルヘイルのお膝元とはいえ治安も悪い。
 そいでなくたって騙されそうな性分しとるんだから、気が気じゃあなくてな」
 四年前とは、体格も顔もだいぶ変わっていたから、レース時の覆面をして、会いに行った。
 久方ぶりに会った弟は、また泣いていた。
 彼がシルヴェスタに気づくまでは、傍に居ても許されるのではないかと思って。
 それまで黙って話を聞いていたミウシャが、泣きそうに顔を歪めた。
「アホネンさんは、もう怒ってないと思いますう。もう、傍に居たっていいじゃないですか」
「それはできん。あいつはもう、一人前だ」
 ルノーシャンは兄とレニアスにべったりで、自分の判断で行動できない子だった。
 その彼が、レニアスの意見も聞かず、不得手な分野へ勝負を挑んできた。
 見守る親鳥は、もう彼には必要ない。巣立った雛は己の翼で飛ぶものである。
「それにな……俺はあいつに勝ちたかった。竜屋としてあいつに敵わん劣等感を、俺の領分で巻き返したかった」
 ところが、完膚なきまでに負けた。
 尻に火がついた状態ということを、ルノーシャンは忘れていたはずだ。飛んでいる時というのは、そういうものである。
 しかし、あのゴールに対する執念はどうだ。
 結局のところ、弟に劣っていた訳は、腹に据えた目前の成功への執着の差だろう。
 負けたはずなのに、清々しいのは何故なのか。
 だが。
「……このまま負けたままには、せんから」
 ミウシャへ背を向ける。
 敗退したのに晴れやかな理由が、やっと分かった。
 シルヴェスタは、栄光と虚栄を手にしたこの戦場と、やっと決別かなったのだ。

 その年の冬、寒空の下でルノーシャンは泣いていた。
「レンちゃん、死なんといてね。絶対、帰ってきてね……」
 案の定と言うべきか。アンナセン国との関係が悪化し、レニアスは国境線で守備に当たる指令を受けた。
 出立の前に、店先まで顔を見せに来てくれたのだが、あんまり悲しまれるのでレニアスも苦笑しきりである。
「大げさな。今までかて、もっと危険な任務こなしてきたんだ、俺は」
「だって……」
 ず、と鼻をすする。
「僕を置いて、行かんでね」
「行かんよ。お前みたいの、置いて死なれんわ」
 彼は、湖のほとりに待たせたレナに跨った。
「困ったら、ベルンハードを頼りに行き。あいつは基地に残る」
 割にあっさりしたもので、レニアスは飛び去った。
 ルノーシャンは、重く溜息つく。俯いたので、首のカプーがずり下がった。
「皆、僕のこと置いて行ってまう」
 呟く彼の横へ立ち、ミウシャは笑いかけた。
「ミウは、いなくなりませんよ。お傍にいますう。カプーちゃんも、ねーっ」
「かぺーっ」
 ルノーシャンは涙を拭い、「ありがと」と囁いた。
「さあさ、戻りましょう。サファイアちゃんが、寂しがってますう」
 けっきょく、サファイアはルノーシャンが引き取ることになった。
 伯爵家では、二匹目の幼竜が誕生して、母親がきちんと育児しているらしい。
 店長に懐いてしまったサファイアの子は、彼にとっての親元にいるのが幸せだろうという、伯爵夫人の判断だそうだ。
 因みにあのフェザーは、兄が連れて行ったらしく、ルノーシャンの元にいない。
「あのフェザーちゃんは、バルバルさんじゃないと、やっぱりダメみたいって」
 と、ミウシャから伝言を聞いた。
「店長さん、今日、病院の日ですよね?」
「うん。もう、だいぶ動くけど」
 レースで負った左腕の骨折は、ほぼ完治している。
 無理は禁物と言い含められているものの、そうも言っていられないのが、竜屋の辛いのところ。
 店に入る前に、郵便配達のショートエルダーが舞い降りた。
 郵便屋さんから冊子を受け取り、目を丸くする。
「あれーっ、これって……」
 覗き込んだミウシャも、口元に手を当てた。
 ルノーシャンが調教師の大会で優勝した際、記事が掲載された、あの雑誌だった。定期購読しているので、毎月こうして手元に届く。
 眉を下げて、笑った。
「きっと、もうじき会いに来てくれはるね」
 表紙には、「今期優勝者」という煽りと、どこかで見た覆面男が載っていた。

 

了.

婿殿は潔癖症 全話

 小体なステーションのおんぼろ船から降り立った人々は、目の前に広がる黄金郷に歓声を上げた。
 アダムアイル=ヴェルトールきっての保養惑星、志摩である。
 テラが滅びて丁度一万年、合理性の名のもとに排斥された自然を保つのは、志摩を含めても片手の指で足りるほどだ。

 観光客は我先にと、搭乗橋の下に浮かぶ仮想パネルで手続きを済ませる。船の周辺では、パイピングの制服に帽子を目深に被った船員たちが忙しく働き回っていた。
 記章をつけた者たちは乗客の行く手に並び、一人が仮想デバイスの拡声器に向けてこんな口上を述べる。
『この度はピギーバッグペイロード船シマ・ハシリガネにご乗船頂き有難うございました。ヤマト神道の惑星、志摩での観光をお楽しみください。宇宙での長旅お疲れ様でした』
「ありがとう、志摩宙軍のおにいちゃんたち!」
 乗客の子供らが小さな腕を千切れんばかりに手を振った。記章つきの二人の青年が、それらへ笑顔で手を振り返す。

 このツギハギだらけの冗談みたいな古い宇宙船は、嘘のような話だが志摩宙軍の旗艦である。
 ピギーバッグペイロード船でありながら旗艦、旗艦でありながら貨物を載せて格安ツアーも行い、しかもその船員は全て志摩宙軍の兵隊というのだから変わっている。
 志摩はヤマト星系の古い伝統を守る惑星であり、滅びたテラさながらの風景を保つ、有数の人工惑星で、観光客も絶えない。従って志摩と中皇星をつなぐシーレーンは海賊の温床となりやすい。
 普通は哨戒船や護衛艦を出すものだが、志摩宙軍は観光客を乗せて守る方針をとった。特産果物のパッケージや高級ライスブランド『シマオトメ』の輸送で外貨は稼げるし、治安も維持できるし、観光客を増やせる。
 おまけに海賊相手の実戦経験まで積めるので惑星宙軍にとってはこの上なく美味しい商売なのだ。

 宙軍に手を振った子供たちは、今は透過材質の壁の向こうに広がる稲穂と朱塗りの建物に齧りついている。今まで見たことのない光景なのだろう。
「本当によくして頂いてありがとうございました。子供たちの遊び相手にもなって頂いて……」
「いやいや、うちも子供が多いので」
 記章の青年が桃花紋の制帽を押し上げるときに見える、目尻にさした朱色の化粧が色っぽい。
 青年がその目を、荷物を抱えて走り回る船員らに流すと、ぴょっと驚いた者たちが小動物のように飛び上がり、帽子から目元が覗く。彼らにも、青年と同じく朱色のアイラインがあった。

 観光客の母親は、そんな小さな船員たちを不安そうに見つめた。
「ずいぶん幼いように見えるのですけど―――うちの子と同じくらいか、少し年上程度に。あの子らも兵隊なのですか。それとも見習い?」
「見習いであり、現役でもあります。全体で言えば少数なのですが、フォローしやすいのと訓練になるのでよくハシリガネに乗せるんですよ。あれらは、志摩の当主が実験施設から引き取った子供なので」
「実験施設?」
 目を丸くしたアヴァロン星系からやってきた金髪の女性に、青年は苦笑した。
「決して珍しい話ではありません。ウィッカーが生まれやすい星系には……」
「志摩はヤマトで唯一のウィッカー誕生地ですものね」
「何にせよ、今はこうして我ら宙軍が目を光らせておりますし、シヴァロマ皇子が皇軍警察におわす以上、悪人どもも悪さは出来ますまい」
「ほんと」
 思わず女性が吹き出す。
 アダムアイル皇族のシヴァロマは皇軍警察を任されるニヴルヘイムに外戚を持つ皇子だ。その神話に出てくるかのような冴え冴えした美貌はアダムアイルにおいて珍しくもないが、冷血、冷徹、冷淡に偏執的な絶対正義と重度の潔癖症で三三七拍子揃った断罪の使徒である。
 あの皇子が皇軍警察でとぐろを巻くようになってから、宇宙での犯罪率は異様に低下した。執念も凄いが手腕も凄い、シヴァロマ皇子は皇位争いよりも犯罪撲滅で忙しいと専らの噂だ。

「ところで、将校さんはシマ姓の……?」
「志摩にはシマ姓の人間はごまんといますよ。自分はタカラ・シマ」
「自分はクラミツ・シマでござい」
 隣で黙っていた、もうひとりの記章の青年が名乗る。この青年、伝説のヨシツネかアマクサの再来かというほど繊細なヤマト系の美青年なのだが、声が……伝説の傭兵だった。低い。見た目の繊細さと裏腹に、あまりに声が渋すぎる。
 船内放送で聞こえる声と当人の落差に初見の乗客が二度見するのは日常茶飯事だ。

 と、少年兵の一人が「若様!」と叫んだ。
「若様ー、当主さまがお呼びです」
「はいあぃ」
 呼ばれて二人のシマのうち、タカラ・シマのほうが帽子の鍔を下げて去った。
 それを見送る、観光客女性とクラミツ・シマ。
「……若様?」
「へぇ」
「軍の一番偉い人かと……」
「あれは軍主ですから、一番偉い人で間違いないですよ。指揮官は自分ですが」
「志摩で若さまって、あのかたヤマトの王子様ですよね!? ヤマト文化財の!!」
 ヤマト王族にはヤマト星だとか、ヤマト家というのはない。ヤマト星系にある出雲、讃岐、薩摩、志摩の四家がヤマト王族に該当する。
「ヤマトの王子は珍しくないですよ。自分も王子なので」
「そ……そうなんですか、あなたも」
「ま、俺は末席の華族ですがね。あれは確かに次の志摩当主です」
「身分の高い方でしたわよね!?」
「はい、あぃ」
 女性の驚愕と恐怖と興奮も、クラミツにも分からなくはない。
 いくら王族が意外と多いとは言えど、総人口と比較すれば、少ないと言える。というかあれは志摩の跡取り息子だ。惑星まるまる一つ所有する家の、ヤマト王族だ。木っ端華族の次男坊クラミツとは違い、それこそ次期ヤマト王でもおかしくはない。
 それが志摩宙軍と一緒になって貨物を運び、観光客の面倒を見て、時には海賊退治に飛び出し、少年兵や観光客の子供と嬉しそうに遊びまわっていたのだ。

「いや、まあ、うちの当主一家は、全員、ああいう感じなので……」

 これで驚いていては身が持たない。
 そう告げると、女性は子供たちが熱心に見つめる黄金郷へ、何とも言えない眼差しを向けた。





 志摩のステーションから目抜き通りを抜けると、すぐ志摩の邸に着く。
 巨大な朱塗りの木造建築は体の良い観光スポットとなっており、もちろん当主一家の住まいなので一般公開はしていないが……周囲には仮想デバイスで記録を撮る客がたむろしていた。
「あぃ、ごめんなさいよ。はい、あぃ」
 正門で邸を仰ぐコンロン人の脇を抜け、鳥居の並ぶ石段を登る。

 テラが滅びて一万年、一時は欧州文化に押されて消えかかったヤマト文化を頑なに守ってきたが、これらの様式が意味するところは失われている。コンロンの文化にも似ているが、双方ルーツは定かでない。
 テラが滅びる際、人々は方舟のごとく適当に宇宙船に詰め込まれ、文献の類はデジタルデータに至るまでほぼ失われてしまった。あの鳥居も原型とはかけ離れたシルエットなのだろう。
 木造五重の邸にしても、畳なる独特のカーペットは茶室にのみ使用されている。い草の原料である稲作の盛んな志摩だが、畳床の技術自体は衰退し、職人は絶滅危惧種。現代では殆どの物品を3Dプリンターで生成するため、プリンターの材料費を考えれば畳のように複雑な構造で、しかもたかだか十年程度で張替えが必要な消耗品を趣のためだけに採用出来ない。
 従って邸内は鏡面仕上げの木床であり、内装も『ヤマト風』であって本物のヤマト文化とは違う。どれほど伝統を守っても、環境の変化には適わない。観光客の子供たちが、観葉植物しか見たことがないのと同じように。

 この志摩神宮は志摩当主家の住居であり、同時に中央行政機関でもあった。そのための官僚が二層、三層で働いており、その世話をする使用人も行き来している。
 彼らがタカラに軽い会釈はしても泣きついて来ないということは、当主の呼び出しも大した理由ではないらしい―――あの親父が何かしでかすと、大抵『法に抵触するか』もしくは『全く法にないこと』の二択しかない。

 四層から降りてきた老爺が垂れた白い眉を上げ、深く会釈した。
「おかえりなさいませ、若」
「おぉ……」
「あにさまぁ」
 爺やの背後から降りてきた朱袴に桃花柄の着物を羽織った少女が、無邪気に段上から腕を広げて飛んだ。
「ひぃ」
 十五歳になる娘が二、三メートル先からアイキャンダイブ。いくら宙軍で兵たちと共に鍛えたタカラ・シマでも、思わず悲鳴を上げる。何とか少女を受け止め、膝で衝撃を吸収し腰をひねって少女を軟着陸させた。
「な、な、な……ななせ」
「おかえりなさいまし、あにさま。父様が呼んでいましたよ。三日くらい前から」
 あの飽き性の当主が三日もタカラを捜していたとは、明日は隕石でも降るのだろうか。
「で、親父どのは何処に?」
「天守でお酒を呑んでいましたよ。父様ったら、ぜんぜん働かないんだから」
 桃のごとき可憐な頬をぷすっと膨らませるナナセハナ。しかし、仕事をしないというよりは、仕事させてもらえないのほうが正しいような。
「何の用かは聞いたか?」
「いいえ。でもあにさまの緊急ポートに連絡しなかったのでしょう? ならきっと一大事ではないです」
 そうであると、良いのだが。
 ともかく、タカラ・シマは妹と共に五層まで上がった。
 そこには確かに昼間から働きもせず、酒をのみのみ天守から城下を見下ろす駄目当主がいる。溜息ついて、その背に迫った。
「おい、帰ったぞ親父どの」
「んぉ」
 情けない声を上げ、当主は酩酊した赤ら顔をのけぞらせた。相手が息子と知るや、志摩当主カサヌイ・シマは髷を揺らして立ち上がる。
「捜してたんだぞ、タカラ! テメー、また軍服なんぞ来やがって、どこを遊び歩いてやがった」
「………」
 酒臭い息を間近から噴射され、タカラはうっそり微笑んだ。
「おめえ様がこしらえた借金の為に外貨稼いできたんですが何か問題でもございましたか親父どの」
「あっは、俺は孝行息子を持ったなぁ」
 まるで自分の手柄のように言うカサヌイにタカラは舌打ちした。

 この親父ときたら、まったく碌でもない当主なのだ。

 タカラとナナセハナは、幼少期の殆どを宇宙船ハシリガネで育っている。
 カサヌイは子供たちに広い宇宙を見せたいと言って、商いをしながらヴェルトール中を旅して回った。
 流石に志摩神道の修練はカサヌイ直伝だったものの|(流石にこれを怠っては志摩当主である存在意義が皆無)、タカラは自分たちをよくある宇宙キャラバンの一家だと本気で信じていた。
 カサヌイも偶には我が子を連れて志摩の邸へ帰ったが、志摩邸宅は説明されねば豪華な温泉旅館にしか見えない。使用人たちが至れりつくせり世話を焼いてくれるし、一般にも解放している巨大な露天風呂がある。公衆浴場みたいな場所を、自宅の風呂とは考えないだろう。ふつう。
 当主がそのように放蕩していても誰も困ることはなかった。むしろ志摩住民にとって、この父親はいないほうが有難い存在。いれば大問題を引き起こす。その問題は、長い目で見れば志摩に利益をもたらすのだが、親父殿は思いつきでことを起こすので、計画性はなく予算を考えない。

 カサヌイ・シマはせがれが十歳になるころ、急に志摩へ降り立ち、
「俺が思うに、外に物資を頼るのが悪いと思うんだよな。人間、飯と酒とエネルギーがあれば生きてける、自給自足で行こうぜ。せっかく景観のために人工太陽あるんだからさあ」
 などとのたまった。

 こんな男でも志摩当主。彼の一言で観光と祭事だけが収入源だった志摩は、突如としてエコなロハス志向に転向した。
 食料や物資、エネルギーの殆どを外部や工業惑星に頼っていたというのに、第一次産業革命勃発、農民優遇、害虫爆誕、エネルギー問題などが次々と引き起こされた。
 その上いかにも父親面で、
「俺の息子もそろそろ大きくなったし、一人前として扱ってやりたい。志摩宙軍をタカラに任せる」
 当主不在でガタガタになっていた宙軍を、幼い息子に丸投げする。
(この親父は商人の分際で何とち狂ったことを偉そうに言ってんだ?)
 キピガイを見る目で父親を睨んだのを覚えている。
 トンデモ当主に泣かされていた人々は面構えのよいタカラに感激し、あれよあれよという間に着飾らせた。
 その間、ナナセハナは巫女たちに囲まれてお菓子をふるまわれ、ほんわかふんわか状態。

 慣れない金雀友禅の着物に『着られて』ポカンとする若干齢十歳のタカラ・シマ。そこへ入れ替わり立ち代り官僚や軍人が現れ、
「どうすればいいんですか。どうしたらいいんですか」
 恥も外聞もなく、泣きつく。
 一度は民主制の道を選んだ人類が、再び世襲制に戻ったのは何も懐古主義のためでなく、自治権を確立させるためだった。官僚たちの権限はたかが知れている。ルールブックにない問題の解決には身分ある人間に采配を振るって貰う他ないのだ。
 いくら志摩の危機でも、彼らが越権行為で出しゃばれば、自治能力なしと見做され、志摩は他王家や他皇族に蹂躙される。
 タカラは面食らったまま「見識者と専門家を連れて来てください」と学者や有能官僚を一つところに集めた。

 それからが大変だった。まずこのままではエネルギー不足で志摩は枯渇する。志摩所有小惑星に集光炉やらバイオマスプラントやらを建て、エネルギー変換出来そうなものは死体でも使った。そのエネルギーをマイクロ波に変換して志摩へ送る手はずを整える。
 人手不足の農地には、鈍った志摩宙軍を放り込んだ。訓練と称して。今でも収穫期には手伝わせている。
 やる気のない警察を解体して宙軍に吸収、宙軍と銘打ってはいるが殆ど陸空海宙自衛警察だ。そのほうが人員整理するうえで扱いやすかった。
 ここまでの計画で借金の利息が利益率を凌駕。それをタカラはライスブランドカンパニー、製紙、地酒輸出、観光ツアー強化、ついでに海賊から略奪した物品と海賊船の解体で何とか巻き返す。
 宙軍は人づかいの荒い志摩嫡男のもと、海賊退治と農業と警備で無駄に逞しくムキムキと育った。
「人間は飯と共通の敵があって考えるひまがなければ文句も言わずに働く」
 タカラの持論である。この場合の敵とはカサヌイ・シマだ。

 こうしてロハス地獄に陥った志摩も、ようやく落ち着いて利益を出すようになったのだが、追い打ちをかけるようにカサヌイは再び大問題を起こす。
 カサヌイはヤマト星系の子供を攫うウィッカー実験施設をハシリガネ一隻で壊滅させ、そこまでは良いが、収容されていた子供二千余名を志摩へ連れ帰ってきた。
「助けてきたんで、あとよろしくな」
 と、息子に押し付けて。
 これが先述の『法にないこと』の最たる例である。二千人もの素性不明の幼い子供。親元に返すにしても、どう調べれば良いのか。彼らの衣食住の世話は何処で、誰がするのか。
 保護したのは糞当主だが、あくまで志摩。自治権がある以上、皇軍警察に押し付ける訳にはゆかない。それは皇族に介入の糸口を自ら差し出すようなものだ。
 さりとて十歳以下の小さな子供たちを宇宙に放り出す訳にはいかない。暗く孤独な宇宙に子供を放り出すくらいなら処刑してやったほうがなんぼかマシだ。もちろん、統治惑星でそんな非人道な真似は出来ない。
「どうしましょう、若さま」
 半泣きの官僚を宥め、親探しをヤマト王家がそれぞれ所有する軍警察の行方不明者捜索課に依頼し、実親と里親を求め、残った孤児半数を宙軍で引き取っている。

 こうして数々の試練を乗り越えたタカラ・シマは当主以上に当主らしい跡取りへと成長した。人々が「若」と呼んで親しんでくれるのも、このあたりの経緯あってこそ。
 タカラが志摩に尽くすのは、こうして慕ってくれる人々のためであり、世情に抗って古い伝統を守る美しい志摩のためだ。
 決して父親の尻拭いのために日夜海賊の身ぐるみを下着までひっぺがしている訳ではない。断じて、違う。

 本題に戻る。
「で、何用だ。親父どの」
 どうせまた、死ぬほど碌でもない話に違いない。もし、またあの地獄が再来するような問題なら、ここで突き落として自分も死ぬ。後はナナセハナが優秀な婿をとって、いっそクラミツとでも結婚してくれれば良い。
 そんな息子の殺意を知って知らずか。
 カサヌイは酒に濁った目でじろじろと息子を値踏みし、脂っぽい顎に手を当てた。
「母親に似てきたな、タカラ。美しいぞ。クラミツほどじゃあねえが」
「クラミツほど美形でたまるか」
 気色の悪いことを言う。
 タカラはあの声の低い親友がどれほど顔で苦労してきたか、いやというほど知っている。そしてタカラ程度の顔でも、それなりの不快な思いはした。精悍になったと言われるならまだしも、美しいと賞賛されても、嬉しくはない。
 王族などはアダムアイルの皇帝へ嫁を献上するために存在するようなものだから、民族の特徴がよく出た純血の美女を次々娶る。その煽りで男児の容姿もカマくさくなりがちだ。カサヌイのようにむさ苦しいマスラオはあまり見ない。
「ニュース見てねえのか。じきに皇子様方の婿入り先を決めるイベントがあるんだよ」
「そうだっけか?」
「そうだよ。跡継ぎならニュースくらい見ておけ」
「……」
 宇宙では子供たちと海賊と戯れるのに夢中で、すっかり忘れていた。重要な速報があれば、クラミツ以下部下たちが話題にするから、さほど気にかけなかった。部下がアダムアイルの同性婚に興味を持つはずもない。
 しかし、言われてみれば皇子たちの年齢から考えてそんな時期だった。

 皇軍警察で有名なシヴァロマ皇子をはじめとするアダムアイルの皇族は、エイリアンと折衝する為に存在する人類の象徴だ。人類代表の一族であり、優れた遺伝子バンクであるため、その血は厳密に管理されている。
 皇帝は王族から妃を娶るが、皇子皇女は子孫を遺せない。皇族は皇族の他に存在しない。ゆえに、兄弟が即位した後の『居場所』として、同性の王族の元に嫁入り・婿入りするのだ。
 王族にとってこの政略結婚は、彼ら人間ダビスタの結晶たる皇族を迎える自体もさることながら、その皇子の生家とも外戚関係を結べる美味しいイベント。
 適齢期の娘息子がいるなら、逃す手はない。
 同性婚のため子孫は残せぬが、そこは兄弟が継ぐなり兄弟の子が継ぐなり、養子を迎えるなりすればいい。志摩はタカラが継ぐことになっており、しかも妹のナナセハナがいる。条件は満たしていた。

「あの、あの。私がクラライア皇女殿下と結婚しても良いのではありませんか?」
 話を聞いていたナナセハナ、やけに熱っぽく口を挟むが、タカラは手を振って否定した。
「むり。俺の友達がクラライア殿下の恋人だ」
「はぁー? てめー、どこの姫君と友達だって?」
「オリエントのヴィーヴィー王女だよ。前にお忍びで志摩へ観光に来てたんだ。ウィッカー同士、話が弾んでさ。今でも惚気話をメールしてくる。結婚するって言ってたから、皇女は諦めろ」
「わたし、憧れていましたのに」
 本気で残念そうだが、タカラとしてはあのメガゴリラみたいな皇女が義妹になるのは辛い。アダムアイルの皇族は優れた遺伝子を掛けあわせ掛けあわせ残った人間ダビスタの結晶なので、美しいだけでなく体格がいい。加えてクラライア皇女は一癖も二癖もある弟らの頭を押さえて君臨する恐怖の陸軍元帥。あの皇女が嫁に来ては、志摩が征服されかねない。

「……いいよ」
 とタカラは言った。
「婿貰って来い、と言いたいんだろ。いいよ」
「おお! もっと抵抗するかと思ったぜ」
「気構えはなかったけど、そういう慣習があると知識で知ってたからな」
 男と結婚してでも人材がほしい。
 というのがタカラの本音である。残った皇子はどれも超人、迎え入れれば即戦力。クラライア皇女が義妹になるのは辛いが、クラライア皇女と結婚しろと言われれば躊躇なく出来る。イエス政略結婚。
「それに、男とも女とも経験はある。いまさら抵抗なんざねえさ」
「だ、男性とも?」
 純粋培養、親父にも兄にも志摩の人々にも溺愛されるナナセハナが飛び上がった。
「ふけつですわ!」
「不潔かなあ」
「ふけつですわーっ」
 クラライア皇女と結婚したがっていたくせをして、ナナセハナは真っ赤になって走り去った。何をどう想像しているのか、年頃の娘は恐ろしい。お兄ちゃん知ってるんだぞ、男同士がキスしてる薄い本持ってるの。

「………」
 酔った親父がのたくた立ち上がり、息子の頭をはたいた。
「いって」
「男とヤったことがあるって、おめぇ、ガキん時のアレだろ」
「………」
「あれは違うだろ。おめぇは平気かもしれないが、ナナセに余計なこと言うな。あんなのを経験のうちに入れんじゃねえよ」
 たまにこの親父はちゃんと親父をするので腹立たしい。
 タカラは肩を竦め、
「アジャラあにさまなら、ノリで結婚してくれる気がするんだよな」
 アジャラは薩摩の姫君を母に持つ、ヤマトの血を引く皇子だ。気さくな方で、ヤマトの例祭で何度かお会いしている。
「お前、アジャラ様に可愛がられてたからなあ。よし、せいぜい気を引いてお情けで結婚してもらえ」
 制帽を被るために短く揃えた髪をぐしゃぐしゃ撫でられる。

 実を言えば、タカラの本命はシヴァロマ皇子なのだが。
 しかしニヴルヘイムの皇子がヤマト辺境の志摩へ婿に来てくださるとは思えない。ただでさえ、屈指の美女が揃うニヴルの出身だ。目は液だれするほど肥えているに違いない。扁平顔のヤマト人は大和撫子というブランドに頼る他なく、それも王子では意味もない。ヤマト王族はあまり婿をとれない傾向にあった。
(それでも、一目……)
 と思う。
 シヴァロマ皇子にお会いしたい。
 会って、十年前の礼を言いたい。

 十年前、シヴァロマ皇子は、タカラの命を救ってくれた。
 潔癖症で有名なあの皇子が、躊躇なく抱き上げて救助してくれたことを、一時も忘れたことはない。





 タカラは八歳のみぎりに誘拐された。
 自分が志摩の王子とも知らず、ウィッカーが希少人種とも知らなかった。ナナセハナも価値あるが、女性ウィッカーは十ヶ月に一度しか子を成せないため、男児のほうが誘拐対象として手頃らしい。第一、ナナセハナは見知らぬ惑星で父親から離れるような子供でなかった。
 冒険心自立心好奇心そろって旺盛でやんちゃ盛りのタカラ・シマは、父親が商談している最中、よく惑星探検に繰り出していた。
 カサヌイの管理能力のお粗末さもある。ふつうの親はヤマト文化財に指定されている息子を放任しない。

 そんなこんなで海賊に誘拐され、どこともしれぬ惑星に監禁され、穢らわしい目に遭った。ウィッカーはDNA抽出では誕生しない。なぜか、通常の性交で繁殖した例でしか現れないのだ。そのため、海賊の目的はタカラの精子だった。ウィッカー遺伝子を欲しがる金持ちは星の数ほどおり、タカラから絞りとれば絞りとるほど金になるぼろい商売……のはずだった。
 しかしタカラはまだ当時八歳。精通もしておらず、業を煮やした海賊たちは「犯せばそのうち出るはず」と言って、いや、おそらくは単純に憂さ晴らしだったのだろう。幼いタカラを嬲り者にした。
 二日目までは怖かった。
 何をされるのか分からぬし、海賊など乱暴なものだから純粋に痛い。高価な商品なので傷がつけば逐一医療用チャンバーで治療を受けたが、そのたびに処女同然になるのでそれはそれで辛かった。
 三日目になると麻痺してきたのか腹が立ってきた。このタカラ・シマ、ちょっとやそっと強姦されたくらいでヘコタレない。
 今日も今日とて幼い子供を慰み者に乱交パーティーを開く陽気な海賊どもの反り立ったブツに怒り狂い、海賊らの股間を噛みちぎって回った。
 そう、一人に飽きたらず、次々に襲いかかって噛みちぎったのだ。我ながら呆れるほど強顎である。

 そこへ突入してきたのが、シヴァロマ率いる皇軍警察だった。
 当時十五歳、紅顔の美少年であらせられたシヴァロマ皇子は、身の丈ほどもあるデンドロビウムみたいな物凄い携行砲を片手で担ぎ、ガンガン誘拐犯どもを撃ち殺しながら、その銃身で壁を貫き巨大なトランスアニマルを骨ごと貫き、タカラが囚えられていた300mmハルコンの扉を鉄球重機の如き膝でぶち抜いて、特殊鋼鉄で作られた手枷足枷を素手で引きちぎって救出してくれた。
 確かあの手枷はアダムアイルの皇族でも破れない……という触れ込みの違法製品だと海賊が自慢していたが、アダムアイルにそんなものは通用しないという実例をシヴァロマが証明した。

 こんな怪物みたいな人間が、宇宙に存在するんだ!

 タカラは感動した。もう無体を働かれたことも肉団子になった海賊のことも頭から吹っ飛んでいた。
 シヴァロマ皇子は血と白濁物に塗れたタカラに目を留めると、自身の将校コートを脱いで包み、何の躊躇もなく抱き上げて監禁先を後にした。
 冷血皇子などと呼ばれているが、シヴァロマの腕の中は温かった。
 そんなこんなで今度の婿争奪戦ではシヴァロマ目当てのタカラだが、まあ、相手にしては貰えなかろう。何しろ、各国からそれ用に調教もとい育成された王子が集う。がさつなタカラの敵うところではない。シヴァロマとは言葉さえ交わしたことがないのだ。彼にとってはタカラとの出会いなど、仕事の一環程度だろう。

「しかし、何で俺まで行かにゃならんのだ」
 不満そうな友人の肩を、生暖かく微笑むタカラ・シマが叩く。
「その皇子さまに見初められる為に神から授かったとしか思えない、無駄に洗練された美貌を今使わずにいつ使う、クラミツ・シマ」
「俺は家や志摩のために男と結婚する気はない!」
「俺だってべつに男と結婚したい訳じゃない。ただ、志摩のためには自分の人生も友の人生も犠牲にできる」
「お前なんか友達じゃねえ!」
 などと供述しているが、いざ見初められれば黙って婿を迎え入れるだろう、この男のことだ。クラミツの両親も手放しで歓迎するはずである。
 それに「いかようにもお使いに」とあの両親が言ったのだ。

 志摩ロハス事件で志摩宙軍を任された折、タカラは志摩の華族に助力を願ったのだが、彼らはこの期に当主一家を無力化して完全な傀儡にし、ゆくゆくは当主の座を奪おうと目論んでいた。
 とはいえ、流石に頼ってきた当主の息子を手ぶらで返す訳にはゆかず、ちょうど同じ年頃なので遊び相手にでもしてください、と差し出されたのが次男のクラミツだった。
 華族育ちで世間知らずのくせに欲だけは深い実家にうんざりしていたクラミツは、同年代の少年ながら孤軍奮闘するタカラに同情を寄せ、また実家を見返すために力を尽くしてきた。タカラにとっては最も信頼できる側近であり、何でも話せる親友であり、かけがえのない存在だ。
 しかし、そんな友人も志摩のためなら叩き売る。

「それに、お前受けの薄い本がけっこう出回ってるし、いけるいける」
「俺ウケ? ってのはなんだ?」
「実在する男同士の恋愛を妄想のままにコミカライズした民間出版誌だ。専用マーケットもある。志摩で人気があるのはタカラ×クラミツ、海賊や触手エイリアン×俺やお前の輪姦ものってトコだな」
「そんな不道徳なモン許容してやがるのか!」
「彼女たちは電子データではなく、実本を好む。製紙会社『たから千代』の和紙をよく使ってくれるんだよな」
 妹はまだ十五歳のため、なまぐさいエロ本は購入していないが、妹が好むというのでタカラは密かにこの未知の文化を調べた。ナナセハナはクラミツ×タカラがお好みのようだが、王道は逆CP、カサヌイ×タカラはマイナーといったところだ。
 ちなみにこの文化を知ってから、タカラはこっそりデオルカン×シヴァロマのニヴル皇子双子本を購入してみたのだが、シヴァロマ皇子が脆弱な肉体のなよなよ男として描かれており、すぐに捨てた。あんなのはシヴァロマ皇子ではない。シヴァロマはもっとこう……宇宙に住む巨大鮫のような御方だ。

「これからの時代、モノカルチャーじゃ生きていけない。需要拡大上等。彼女たちにはバンバン薄い本を制作してもらって、たから千代の名を宇宙に轟かせてほしい」
「だからって……俺とお前がアレとか……俺がお前に抱かれてるとか…………」
「ふふふ」
 苦悩する親友が微笑ましく、タカラは笑った。
 確かにCPとしてはタカラ×クラミツが多いのだが、全体的な人気はやはりヤマト文化財志摩王子のタカラが圧倒的に強く、タカラはクラミツや親父だけでなく様々な男に彼女らの頭の中で犯されまくっている。
 おそらくは幼少期に海賊に性的暴行を受けたことが、エロティックな妄想をかきたてるのだろう。実際は海賊の股間を噛みちぎって回った猟奇な結末であろうとも。
 クラミツは宇宙規模で言えば知名度が低く、志摩腐乙女には好まれるが、外星系でもタカラはよく題材に使われた。腐界のビッチといえばこのタカラ・シマだ。クラミツの苦悩などちっぽけなものである。

 クラミツは恨みがましく主君を睨む。
「しかも、宙軍のチビたちまで見た目のいい奴ばかり選んで連れてきやがって」
「皇子さまのうちにショタコンがいるかもしれない。見初められたらその子を養子にして皇子を志摩に迎える」
「最っ低だなテメーは」
「これが政治というものだ、クラミツくん」
 汚れっちまったが、特に悲しみはない。

 宙軍指揮官の会話を聞いていた宙軍のチビこと、忍部隊のコノイトがじっと二人を見つめていた。
 まだ帽子に被られているような小さな頭を撫で、タカラは破顔した。
「皇子さまに気に入られたら、もう兵隊なんかしなくていいんだぞ」
「皇子さまに気に入られたら、若の子供になれるので?」
 帽子と詰め襟からくりくりした目が覗く。
「んん……たぶん、養子にするなら親父の子供、俺の兄弟ってことになるのかな」
「若の子供がいいです」
「若さまの子になれんの?」
 乗客もいない暇な航海の最中、小さいのがわらわら集ってきた。

「若様の子になりたい」「いいなー」「誰がなるって?」「わかんない」

 我も我もタカラの子になりたいと主張する子らが可愛らしく、顔の緩みが戻らない。
 少年兵は五年前に保護され、やっと10歳から12歳になったばかり。残ったのはもともと身寄りのない子らで、タカラを親のように慕ってくれている。
 因みに助けてはくれたが、その後なにもしてくれない当主については、
「べつに皆うちの子にしてもいいが、俺の子になりたいなら、俺かナナセハナに第一子が産まれた後だぞ。跡目問題でややこしくなるからな。その頃にはお前たちも大人になってるだろう。親父どのの子なら、今すぐにでもなれる」
「やだー」
「当主さま酒くさい」
「加齢臭する」
 このように人気がない。

「がんばって皇子さまを落とすので」
 ふす、と鼻息荒く手を挙げるコノイトに、宙軍正規兵が笑う。
「本当に頑張るべきは若でしょう」
「頑張って皇子を悩殺してください」
「我ら志摩一同、若には期待しております」
「おお! 期待していろ。秘策がある。ナナセハナの美容機材で全身つるっつるだしな!!」
「全身脱毛機って、よくそんな高価なモン持ってんな、姫は」
 呆れたようにクラミツ。何ということはない、今年の誕生日にタカラが奮発して贈ったのだ、そろそろ年頃ゆえ、身ぎれいにしたいだろうと。まさか早速自分が使う羽目になるとは思わなかったが。
「気合入れすぎて股までハゲ山にしちまったんだがな」
「それは逆効果では……」

 ワキ毛はまだしも、すっかり成人したタカラ・シマがパイパンというのは、どうなのだろうか。それも、使用したのは最先端の美容機材だそうで、短くて年単位、最高で永遠に生えてこない。
 現代の技術ではある程度、老いもコントロールできるため、外見年齢は生涯変わらぬまま過ごせるとはいえ、爺さんになってもツルツルパイパン当主。
 これで皇子に見初められねば、彼は嫁をとるのだが……

 宙軍一同、敬愛する若の行く末に一抹の不安を覚えた。


***


 中央皇星は文字通り人類の心臓とも言える重要な行政惑星だ。此処にあるのは宇宙ステーションと一般用ホテル、宿泊施設としての宮殿、アダムアイルに仕える使用人の住む邸、各軍事施設、そして皇帝陛下のおわす帝宮と、それを囲うように建つ各星系の城の他は存在しない。せいぜい、それらを維持するための上下水道施設やエネルギー貯蓄システムくらいのものだ。
 一般人が此処に訪問するのは、皇星を経由して他の星系に行く場合。高価なワープ装置の問題で皇星を中心に展開されているためで、一般人はステーションとその周囲のホテル区画から外へは、決して出られない。テロ対策で天井までぶ厚い装甲で覆ってあり、宮殿をその目にすることさえ適わないのだ。

 志摩王族であるタカラさえ、この先までは見たこともない。いつもこのステーションで商いをし、観光客を拾って志摩へ帰るだけだ。
 フロートライナーから降りた少年兵たちは、志摩にあてがわれた客用宮殿に歓声を上げた。まるで修学旅行の様相である。
「他の王子さまもここに泊まるので?」
「いや、俺に用意された宮だ。他の王子もそれぞれ別の宮にいるよ」
「ほぇ……」
 志摩にも賓客用の離宮はあるが、招待客すべてに宮殿が用意されているとはスケールの大きな話だ。コノイトは豪華なゴシック調の宮殿に目を白黒させている。
「クラミツの招待状も確保出来れば、もうひとつ宮が用意されたんだろうけどなぁ」
「俺ごときの身分で来るか、そんな招待状。俺個人に宮が用意されるなんてぞっとする世界だ。俺には、むり」
「ちびどもー、探検に行くぞ」
 頑なに婿とりを拒絶するクラミツを放置して、タカラは少年兵を点呼する。この宮に配置された使用人たちは奇怪なものでも見るかのようにタカラを見送った。

「すげー、トランスアニマルの口から水が出てる」
 エントランスの噴水に感心するチビにタカラは苦笑する。
「トランスアニマルじゃねえよ。これは獅子という、テラに生息していた生き物だ」
「遺伝子操作されてないの」
「されてない。ネコ科で、大の大人が四つん這いになったくらいの大きさがある。金色のたてがみを持ち、肉食で、強い。百獣の王と呼ばれるほどの風格を持つ」
「すっげー!」
「はは……近いうち、アヴァロンの動物園に連れてって本物を見せてやる。今回連れてこれなかった奴らも一緒にな」
「やったあ!」
「ほーい、騒がない。次いくぞー」
「若、待って。デバイスに記録して、居残りのやつらにメールする」
「暫く滞在すっから、いつでも撮れる。いいから、おいで」
「…………」
 使用人たちが無言でクラミツを見つめている。あれ本当にヤマト文化財の王子ですか? アンタが本物のタカラ・シマじゃないんですか? という目だ。
(あんなんで驚いてたら、パーティー当日ひっくり返るだろうな……)
 タカラの「秘策」を知るクラミツは、笑うしかない。

 と、庭のほうへ行きかけていたタカラとチビ軍団を、執事が呼び止めた。
「おくつろぎのところ申し訳ございません。お客様がお見えです」
「客? 誰か知り合い参加するっけ」
 タカラが首を傾げると、執事が客の名を告げる前に「我ね!」という甲高い声が響く。

「タカラ! 久しぶりよ!」
 独特の訛りで叫ぶ高慢そうな少年が、招かれる前に付き人をぞろぞろ連れて宮へ押し入った。コンロン風のヒラヒラビラビラした華美な衣装を纏い、長い髪を頭の上でハート型に結っている。
 タカラは笑顔で子供らを振り返り、
「あれは飛仙髻って言う髪型なんだぞ。珍しいだろ」
「へー」
「子供に珍獣紹介するのと同じ口調で解説するのはやめるね!」
「ひさしぶりー、なんだっけお前、こ……こちゅじゃん?」
「コウ・玉林(ユーリン)ね!!」
 そう、コンロン星系は玉林の王子、コウ・ユーリンだ。昔から女みたいな顔と派手な着物だと思っていたが、なるほど婿とりの為に育てられた息子らしい。気付かなかった。

 コウ・ユーリンは毛が生えた扇子をタカラに突きつけ、
「タカラ! お前にだけは負けな…い……ょ……」
 宣戦布告の言葉が徐々に尻すぼみになる。というのも、いちおう若の護衛名目で付き添うクラミツが、部外者の登場でタカラの側に寄ったからだ。
 コウ・ユーリンはのけぞった。
「何ね! このアホみたいに美しい男は!」
「はっは、そうだろうそうだろう、うちのクラミツは皇子さまどころか皇帝陛下も落とせそうなほど美しいだろう」
「ぶっ殺すぞコノヤロウ」
「低い! 声が! 何処から出てるね!?」
 牛若丸もかくやという美貌にバトー=サンの声音。このギャップが却ってウケると、タカラは睨んでいる。

「こ……こんな隠し玉を持っていたとは」
 たっぷりした袖で口元を隠しながら打ち震えるコウ・ユーリン。彼は側人の一人、コウ・ユーリンと年かさの少年を振り返る。
「ロウホ! お前、今からでも整形するね! 傾宙の美貌になるね!」
「見初められても整形者は婚約破棄になるかとー」
「バレなきゃ犯罪ないよ!」
 大声で自らの犯行を喚いている時点で、無理かと思われる。
 コウ・ユーリンはもう一度クラミツをちらと見、顔を歪ませた後、
「お……お、覚えてるがいいね!!」
 叫んで、逃げ帰った。

 そんなコンロンの王子を、タカラは目を細めて見守った。
「相変わらず微笑ましいな、コシアンは」
「コシアンじゃなくてコウ・ユーリン様だろう」
「ほんの子供の頃に会ったきりなんだが、よく俺を覚えてたよ」

 あれはまだ、シヴァロマ皇子に出会う前、タカラが六歳か七歳で、コウ・ユーリンは五歳だったはずだ。
 今にして思えば、カサヌイは知人の王に会いに行ったのだろう。一家は半年ほど玉林の城に滞在した。
 幼いコウはちまちまとタカラの後をついてきて、
「何してるね」「どこいくね」
 つっけんどんに睨むのだ。
 遊んで欲しいのかと構おうとしても、
「触るないよ!」
 猫が毛を逆立てるように怒るのだ。それでいて、いつまでも後をついてくる。
 ずっとその調子だったのでまともな会話もないままだったのだが、いざタカラが帰るとなると、
「二度と来るないよ、ばかぁー!」
 べそべそ泣きながら叫んでいた。

「かっわいいよな」
「そりゃ可愛らしいな」
 幼い頃そのままに育ってしまったのが、またなんとも。
「あれもウィッカーなんだよ。百歌仙と呼ばれるコンロン文化財の一人だ。ただ、恋占いに特化している」
「ああそれは……儲かりそうだな」
「実際、玉林はコンニャクのおかげでかなり潤ってるはずだ。俺もそんな金になる能力欲しかった」
 コンロン百花仙というブランドもあり、あの性格と血筋であの顔なのだから、タカラよりよほど皇子の目に留まる確率は高かろう。なにも目の敵にせずともよかろうに。


――― 一連のやりとりを目撃した使用人たちは「王子という生き物はこういうものなんだ」と納得していた。概ね、間違いではない。





 足を踏み鳴らしながらあてがわれた宮に帰ったコウ・ユーリンは部屋につくなり付き人のロウホを睨んだ。
「ロウホ! 参加者のデータを洗うね!」
「はいはぁい。三分お待ちくださいね」
「遅い! 一分でやるよ!」
「はぁい」
 ふにゃふにゃした糸目のロウホは、仮想パネルを呼び出して操作を始める。文化財ではないが、ロウホもウィッカーの端くれである。情報収集に長けており、コウ王子に拾われねば軍警察にでも使われていたろう。
 コウ・ユーリンの占術は、対象の詳細データが必要となる。それで重宝されているのだ。

「出ましたよぉ」
 極秘事項である婿入り先探しの候補者リストを並べたて、パネルをコウの前に流した。
「やっぱり有力候補はタカラ・シマ様やコウ様ですね。ウィッカーで王子なのはあなた方お二人だけです。美貌と血筋、それからお父上が良き指導者となると、ニヴルのオリヴィア王子とか、アヴァロンのベネディクト王子とかですかね」
「有力候補の中で見劣りするのは、タカラ? でもあのダークホース、侮れないよ。あの男が見初められれば、あの男を養子に出来るね」
「いや、見劣りするのしないのではなく、タカラ様こそ本命でしょう」
「どういうことね!」
「コウ様が参加されるので、私なりに調査したのですがー」
「お前はやれば出来る子!」
「どういたしまして。つまり、このパーティーで注目されるのは、美貌なんか二の次三の次ということです」
「どういう意味ね。招待された以上、血筋も財力もある有力な家の王子ばかりのはずよ。あとの基準なんか、美貌くらいのものね」
「過去の婿入り先探しで最も重視されたのは、その家の将来性なんです」
 つまり、父親やその星の事業、または本人に伸びしろがあるか否か、が皇子が選ぶ基準なのだ。
 これは政略結婚だ。シンデレラストーリーではない。たとえシンデレラが宇宙一美しかろうが、アダムアイルの皇族は彼女を選ばない。実家に力がないからだ。

「そこを行くと、タカラ様は幼い頃から家を切り盛りして、数々のブランドや企業を起こして志摩を発展させてきました。名のある海賊を何人も討ち取っています。ヤマトの実験施設を壊し……たのはお父上ですが、子供たちの里親を探し、残りを引き取った話は美談として宇宙中で噂されました。あの方、すんごい知名度高いんですよ」
「……だから嫌いね!」
 コウは吐き捨てた。
「あいつ何でも出来るから!」
「ご当人の能力は、ウィッカー能力はとにかく、知能指数も身体能力も容貌も王族の中では平均程度なんですけどね。確かに器用な人ではありますよ」

 思い出すのも腹立たしい、幼いあの日……
 ヨソモノが玉林をうろうろするので、コウはタカラを見張っていた。きっとあの男は何かしでかすに違いないと、コウは読んでいた。
 ある時タカラは妹と蓮華畑に蹲り、もくもくと何かしていた。きっと呪殺の準備に違いない。
 やがてあの男は編んでいた花の冠を置き忘れて、帰っていった。
「作ったものを忘れるなんて、どじな奴よ!」
 せっかくだから貰っておいた。花の冠は子供が作ったとは思えないほど丁寧な仕上がりで、あの男に罪はあっても花に罪はなく、捨てるには勿体ない。
 持ち帰ったそれを、夜に部屋でこっそり被ってみると、
「あっ!」
 部屋の扉からそっと覗うタカラ・シマ。と妹のナナセハナ。彼らは顔を見合わせてぐっと指を突き立てる。
 花の冠を盗み、しかもそれを嬉々として頭に乗せた姿を見られたコウは、屈辱のあまり大声で泣いた。

「どうしたねコウ!?」※父王
「あーあー、タカラ、小さい子いじめんじゃねえよ」※カサヌイ
「いや、なんか花冠をプレゼントしたらすっげー泣かれた」※タカラ
「あらまあうふふ、あの子ったらよほど嬉しかったね」※母妃

 という外野の会話が聞こえぬほど泣き明かし、コウはいつの日かあの男を辱めてやる、と心に誓った。
 ちなみにこの誓いは、タカラ誘拐の速報を聞いて撤回している。彼はタカラが救出されるまで夜も眠れずに心配し、十分おきに乳母にタカラがどうなったかを尋ね、無事が確認された時には安堵のあまりギャン泣き。今では一連のことを認めたくないあまり、忘れてしまっているが。
「あのコウ王子、すっごく微笑ましい思い出のようなんですがそれは」
「それだけじゃないね! あの男に与えられた恥辱は!」
 思い出すのも辛い。あの日、あの男が玉林を出る前日の出来事は。

 自分に課せられた最後の任務|(※彼の中ではストーキングが任務にまで発展していた)を遂行するため、その日もコウはタカラを尾行していた。
 といっても城の周辺をぶらぶらして帰るだけだ。毎日、タカラとコウはそれを繰り返していた。違いはたまにナナセハナが同行するか否かで、飽きもせず二人はスパイごっこと、スパイに追われるスパイごっこをしていた。
 明日からあの騒がしい一家がいなくなる……と思うと、
(せいせいするね!)
 と自分を納得させようとするコウだが、内心は寂しくて仕方ない。ときおり泣きそうになるのをこらえていると、
「あっ」
 転んでしまった。
 城の周辺は衛星が王子二人を監視しているため、邪魔な護衛はつけられていない。コウの親は、可愛い我が子のささやかな遊びを妨げるような真似をしたくなかったのだ。
 しかし、コウは甘やかされて育った身。転んだ時、周囲に誰もいないなんて、みな何をしてるね! と憤慨した。憤慨が涙になって表れる。
「う、うぅ…ひっく」
 蹲って泣くコウの元へ、振り返ったタカラ・シマが寄ってくる。
「な…なにしにきたねっ、笑いにくるないね!」
「いーから、膝っこぞ見せろぃ」
 遠慮なくコウの着物をたくしあげるタカラ・シマ。思わず「無礼もの!」と叫んだが、タカラはまったく意に介さなかった。

「うむち、はるち、つづち」

 訳のわからぬ呪文を唱え、タカラ・シマはぱんぱん、と手を二度叩く。目の前でやられたので、殴られるかと驚いて身を竦ませた。
「ひふみ よいむ なや ここのたり ふるべ、ゆらゆらとふるべ―――いくたま、まがるかえしのたま」
「!」
 開いたタカラの手に、二つの宝玉が現れた。
 その宝玉は僅かに輝くと、陽炎のように歪んでコウの傷に染み込む。驚くことに、その現象が終るころ、コウの膝はつるりとした新しい皮膚に変わっていた。

「あんな高度な技術を見せつけて! 自慢されたね!!」
「いや、怪我治してくれたんじゃ」
 ロウホには、コウが何を根に持っているのかさっぱり分からない。おそらく、コウにも分かっていないだろう。
「大体、コウ王子の能力も凄いじゃないですか。将来性の点においても、志摩を凌駕していますし……」
 なだめると、ようやくコウは「それもそうだたね!」と大いばりで勝ち誇った。

 ただ、志摩神道は神道だけでなく、ヤマトの術文化を担うと言う。妹の巫女姫は地鎮や結界保護に長け、タカラはコウに使用した十種神宝(とくさかんだから)布瑠(ふる)の言(こと)を代表する神言に加え、陰陽道にも精通しているという話だ。コウの能力は恋占に限定されているため、多様性に欠けるが――そのあたりのことは言わないでおいた。

 そもそも彼らウィッカーと呼ばれる希少人種は、文化の信仰によってその強弱が決まる。
 医療と科学の発展により、人間の脳波を増幅させる技術が生まれた。しかし、それはただ脳波を増幅させる『だけ』。彼らの力は仮想次元によって実現される。
 いわゆる『ネット』に近い概念を持ち、様々な情報を蓄積するこの仮想次元は、専用デバイスを媒介して実世界に干渉する。仮想次元はあるいは動画を、あるいはニュースを、あるいはメールを人々に届け、目前に立体映像を映し、タッチパネル式のコンソールにもなる。
 現在のソフトマテリアルを一手に引き受けるサイバネクティックインターフェイスなのだ。仮想次元は演算機になり、宇宙船やモビルギアなどのシステムにもなる。

 その仮想次元に介入するのがウィッカーだ。
 ウィッカーが脳波増幅装置によって様々な現象を引き起こすその原理については、まだ分かっていない。分かっているのはウィッカー能力が遺伝しやすいこと、古くから多くの人に信じられたものほど強く発現するということだ。
 仮想次元は人々の迷信に強い影響を受ける――メールや通話にニュース、書籍や動画、あらゆる情報がひとつの生き物のように、育つ。
 仮想次元の中では、神道や占いなどの現実に「ありえない」ことが、リアルとして存在するのだ。人々が信じる限り。強く信じるものほど。
 ゆえにウィッカーは存在する、というのが有力説である。

 ウィッカーという呼称はテラでデジタルを思いのままに操った『ハッカー』またハッカーの中でも優秀で、魔法使いのようだと賞賛された者につけられた『ウィザード』、そのほか超能力者『エスパー』や魔女『ウィッカ』などが語源とされている。

(俺にとっては、コウ様もタカラ・シマも化け物みたいなもんだが……)
 コウにはああ言ったが、木っ端ウィッカーの端くれであるロウホも戦慄する。
 ロウホは仮想次元に少しばかりダイブして、情報を引っ張ってくる、昔ながらのハッキングのような能力しか持たない。そして多くのウィッカーはその程度だ。
 若干六歳にして実像を伴う異能など、それこそ魔法使いみたいなものだ。仮想次元はまことに、奥が深い。

「それよりコウ様、そろそろお支度をしなければ」
「そうね、そうだたね。うんとめかしこまねばよ!」
 そのように無邪気に笑うコウは大変可愛らしい。これは皇子に見初められぬまま当主になったらどうするのだろう、と心配になるが、まずそれはなかろう。コウなら逆に皇子の間で争奪戦となっても、おかしくはない。






 冷血冷徹と後ろ指さされるシヴァロマではあるが、彼にとっても処刑というのは楽しいものではない。
 また、彼は逮捕を楽しんでいるとよく言われるが、捕物より捕物に至るまでの捜査のほうが余程おもしろい。難解な事件の犯人が判明した時など報酬系が活発になり恍惚感すら覚える。逮捕劇などそれの後処理に過ぎない。
 更に処刑などというのは罰ゲームみたいなもので、どうせ殺すのだから誰でも良かろうにとうんざりする。アダムアイルに嫁を献上するどころか、王位にすら手の届かぬ末端王族の処刑など、マクロシステムで済ませてしまいたいものだ。

「帰ったか、シヴァロマ」
 ニヴル宮で昼間から酒を傾ける双子の弟に細い眉を顰め、シヴァロマは舌打ちした。
「暇そうだな、デオルカン」
「暇だ。戦争がしてえ。エイリアンを殺したい」
 などとぼやくので、前言は撤回する。皇宙軍はあくまで抑止力。この男が暇なのは宇宙が平和な証拠だ。

 ニヴルヘイムに外戚を持つこの双子の兄弟は、顔こそ瓜二つでも見間違えられることはない。性根からくる面相の違いが、あまりにはっきり出ているからだ。デオルカンは野卑さを隠そうともせず、シヴァロマは鏡で見ても神経質そうな顔をしている。自己紹介せねば双子とすら思われぬかもしれない。

「貴様は忙しそうだな」
「雑事が多すぎる。だが、規律は規律だ」
「規律、規律、規律……」
 度の強い酒をボトルのまま煽り、ソファに寝そべるデオルカンは足を組んだ。
「即位すれば、横で規律規律と貴様に喚かれるのか。鬱陶しいな。今のうちに殺しておくか」
「するがいい。出来るものならな」
「………」
 デオルカンはシヴァロマと同じバイオレットの瞳をゆっくりと此方へ向け、ふっと吹き出した。
「やめておこう。唯一味方になってくれそうな奴を潰すのは勿体ない」
「賢明だ。常に賢明に生きろ、弟よ」
「そういえば、今日は婿入り先を選ぶんじゃあなかったか? 兄よ」

 忘れてはいない。規律は規律だ。
 シヴァロマは、あまり皇帝になる気はない。やぶさかではないが、執着はなかった。デオルカンはあくまで帝位を狙うらしく、同性婚もしないらしい。ならば双子のよしみで皇帝になった後もせいぜい小言を言わせて貰う。
 長女のクラライアはとにかく、シヴァロマはアジャラやアーダーヴェインなど規律を重視しない者を皇帝にする気はなかった。その点はデオルカンも怪しいものだが、そこは双子のこと、扱い方は心得ている。

「どれにするんだ?」
「どれでもいい。他の輩が選ばなかったのを拾う」
「なら、コウ・ユーリンとタカラ・シマは諦めるんだな」
「タカラ・シマ……」
 シヴァロマは、そのヤマト系の名を苦々しく呟いた。
「あやつを他の兄弟が引き取るなら、願ってもないことだ。あれは志摩の航路で海賊を潰す」
「自治区なら問題なかろう。何が気にいらねえんだ」
「略奪品は返還するが、それ以外の物品や海賊船を金にかえて懐に入れる。ああいうグレーラインを巧妙に踏む犯罪者予備軍が最も厄介だ」
「貴様が羨むものを、持っているわけだ」
 茶化す双子を睨むが、デオルカンには氷の刃のようと評されるシヴァロマの眼光も効果がない。

「貴様は自分で思うほど潔白な人間じゃねえよ。貴様は本当は、俺のように奔放に生きたいのだ。貴様の本質は破壊衝動と悪徳への憧憬だ、俺には分かる」
「生物には誰しもある。それを理性で律するのが人間だ。それが出来ぬのは畜生よ」
「違いない。俺は獣の本分を忘れちゃいねえ。知ってるかシヴァロマ、かつてテラで地球外生物を追い出したエイリアンハーフは、本能から遠ざかって人間に近づくほど弱くなったらしい」
「貴様と頓智問答をする気はない」

 将校コートを脱ぎ、洗浄ポッドへ向かうために踏み出すが、一度振り返る。
「その気がなかろうが夜会には出席しろ。それが規則だ」
 シヴァロマにとって、それ以上に重要なことはなかった。



***



 コウ・ユーリンが歩けば人が避ける。
 恨めしげな目は心地いい。嫉妬はコウを輝かせる大事なスパイスだ。戦う前から勝ち目のない負け犬はいい引き立て役だった。
 催事用の宮殿は中央皇星でも特にきらびやかで、内装に貴重な宝石をふんだんに使用している。目も眩むような豪華さだ。テーブルクロスひとつ取っても、最高級のシルクだ。これを仕立てれば、立派なウェディングドレスになるだろう。

「ごきげんよう、コウ・ユーリン」
 大柄な護衛を連れたベネディクト王子が、コーカソイド特有の優美な顔で微笑み、声をかけてきた。
「ご機嫌は上々ね」
 お前なぞ眼中にないと、余裕を返す。
 ベネディクトはますます笑み深めた。
「誰かと一緒じゃないのかい。相変わらず友達がいないんだ?」
「と…友達なんか王族に必要ないね!」
「そう? タカラ・シマは交友関係広いみたいだけど」
「………!」
 コウの泣きどころ、タカラの話題を出されて苛立つ。実のところ、コウのタカラコンプレックスはこの男と会う度に蓄積されたものでもある。

 ベネディクトは、何も競争相手を潰してやろうと意地悪しているのではない。タカラ・シマのことで誂うと、この高慢で子供っぽい王子が取り乱すのが単純に面白いのだ。
「そういえばタカラ・シマの姿がないね。君も遅めだったけど、皇帝陛下も皇子殿下もいらしてるよ」
 彼の言うとおり、会場奥の段上の玉座には皇帝陛下がおわし、これほどの人混みでもアダムアイルの皇子は長身でよく目立った。
「我も挨拶するね。そこをどくよ」
 これ以上、タカラのことで弄られてたまるかと、コウは彼を押しのけようとするが。

 カッ―――ポポン

 談笑で騒がしい会場に、独特の音色が響き、人々が会話をやめた。
「何の音だろう」
 他の招待客がそうしているように、ベネディクトも音のするほうを見ようとしている。ただ、コウにはその音の正体が分かった。
「これは、つづみの音よ」
「ツヅミ? それは………」
「よーぉ!」

 カポン

 不思議な掛け声とともに再び鼓が鳴る。
 そうして笛が鳴り響く頃、動揺のさざめきが、歓声に変わった。これの理由は、コウには分からない。振り返って会場の入り口を見やる。
 まず、花びらを散らす桜の枝が揺れていた。意味が分からない。ヤマトの輩が、妙な歩き方で行列を作っている。やはり意味が分からない。
 しかし、最高に意味不明だったのは、美しい色打掛に前帯の格好で、短い髪を金簪やら桃の花簪で飾り立てたタカラ・シマが、三枚歯の巨大な下駄を引きずるようにして登場した時だ。

「ヤマトナデシコ!」
「うぉおおおおヤマトナデシコォオオ!!」

 会場騒然。花魁道中は、ヤマトやウィッカプールのヤマト街で行われる見世物のため、知っている人間も多い。コンロンにも民族衣装は多いのに、なぜか、ヤマトのキモノというやつは外星系に人気があった。尋常ではない、怒号のような歓声だ。
「派手だねえ。いくら無礼講のパーティーと言っても、ここまでやるかなあ、ふつう。変な人だね、タカラ・シマって」
「な、な、な………」
 わななくコウの目前で、タカラ・シマは満面の笑みで、心から楽しそうだ。登場して既にやりきった顔をしている。彼が肩に手をかけているのは、例の絶世の美男なのだが、誰も彼の美貌になど目もくれない。

「これは景気がよい」
 皇帝陛下までお喜びになられて、中央にくるよう手招きをなされる。
 嘘だろう。こんなことで。こんな一発芸のパフォーマンスなぞで………
 青くなったのはコウだけではあるまい。
 しかし、続く陛下のお言葉で安心した。

「どれ、そのほう、ひとつ舞ってみせい」

 タカラ・シマは、ロウホに調べさせた限りでは舞踊の類は出来ない。楽器はある程度扱えたはずだが、彼の多忙でまだ短い人生に舞踊稽古の入り込む余地はなかったのだ。
 だが、この格好で踊れませんは通らない。これはタカラが恥をかく姿が見られるかもしれない……
「………」
 案の定、タカラは黙り込んだ。さあ、どうする。何を言う。
 ヤマトの付き人どもが、近衛兵の指示で下がらされた。陛下の御前には無様な花魁姿のタカラ一人。
 沈黙する花魁に周囲が疑問の声を上げ始める、その頃に。
「り……」
 タカラが大きく片足を上げ、強く踏み下ろした。巨大な下駄が、とんでもない爆音を起こす。
「りん!」
 さらにタカラは、両足を踏みしめた。
「ぴょう!」
(何で返閉(はんぺい)踏み始めたね!?)
 あのバカ、どうしようもなくなって九字を唱えながら禹歩を。殿中で。花魁姿で。あの下駄で。返閉。
 同じヤマト星系から招待された讃岐の王子が「たからぁああ…」と魂消るような悲鳴を上げていた。コウも、そうしたい。

 聡明な皇帝陛下は、事情を察したらしい。呵々大笑、もうよい、とタカラを許す。
「よしよし、お前、面白い奴だの。近うおいで」
 何がそんなに陛下のおツボに入りめさるのか|(※コウ混乱中)、失態を罰するどころか側に呼ぼうとまでなさる。
 厚顔無恥なタカラ・シマ、謝罪するでもなく、恥じ入るでもなく、「あぃ」と返事して下駄を脱ぎ、段を上がる。皇帝陛下の足元で、ちょんと腰を落とした。正座というやつだ。コンロンでは失われた文化である。

 当代陛下は、オリエント出身の皇族で、何と表現しようか、非常に濃ゆいお顔をされている。
 優秀な遺伝子のみ取り入れてきたアダムアイルの皇族としては、顔面偏差値は低めだ。それでもじゅうぶん、男前ではあらせられる。
 彼はそのバタ臭い顔をほころばせ、
「愛いやつよのお。我が皇子の婚姻候補者でなくば、儂が召し上げたいほどだ」
「あちき、今晩でも陛下の褥に潜り込んでありんす」
「わっははは、そうかそうか、可愛いのー、可愛いのー」
 ひとしきり愛でられた後、タカラは帰された。

 その後、タカラ・シマはどの皇子と話すでもなく、すぐに会場から退散してゆく。あの男、何をしに来たのだろう。





「バカだバカだとは思っていたが、ここまでバカとは……」

 まだ誰もいない控室のカウチで着物の前から生足を突き出し、それを組みながら金雁首の煙管をふかす主君にクラミツがいっそ呆然と呟いた。
「え?」
「え? じゃねえよ。無礼講のパーティーで花魁道中、インパクト勝負ってとこまでは分かる。だが、脳の配線をどう間違うと陛下の御前で禹歩踏み始めるスイッチが入るんだ?」
「俺のレパートリーに、舞踊っぽいのがあれしかなかった」
「あれを舞踊っぽいものに分類するところがまず分からねえ……」
「―――タカラ!」
「ふぉっ」
 クラミツの小言を聞きながらダレていたタカラの身が、急に浮き上がる。手から煙管が落ちた。高そうな本皮のカウチに焼け跡が。

「探したぞ、タカラッ」

 身長180センチを超えるタカラを軽々しくも高く掲げる、あまりに逞しいその腕と、目の前に広がる子供のように無邪気な瞳。タカラは大口を開けた。
「アジャラあにさまっ」
「タカラ、どうして真っ先に私のところへ来ない」
 責めながら嬉しそうに笑う羽織袴の皇子は、タカラを抱いてくるくる回る。幼い頃会ったときと、対応が変わっていない。
「美しくなったな、見違えたぞ!」
「あ、美しいといえば、あれを連れてきたのですが」
「げ」
 指し示されクラミツが顔を引きつらせる。が、アジャラはクラミツを一瞥しただけで、すぐにタカラへ注意を戻した。クラミツなど存在しないような扱いだ。少年兵に至っては空気と大差ないのだろう。

「余ったら、俺のところに来るんだぞ」
「本当?」
「ああ!」
 言って、アジャラはぎゅうとタカラを抱きしめる。いや、アジャラならと思っていたが、まさかこうも簡単に皇族を確保出来るとは。
 目的を果たしたタカラ・シマは、早々に催事宮から切り上げた。

 その、数時間後―――

「コウ・ユーリンも捨てがたいのですが、タカラ・シマを希望します。彼のDNAは興味深い」
 夜会が終わった後の、皇子だけの談合で、まずアヴァロンの皇子アーダーヴェインが悪びれずに言ってのけた。トランスジェニックの研究に熱心なこの皇子、文化財を遺伝子操作する気満々である。
 それへ不服を申し立てたのが、アジャラ。そう、ヤマトの文化財だ。もちろんヤマトの母を持つ彼がアーダーヴェインをたしなめるのが、筋……

「あれは昔から、私の玩具にすると決めていたのだ! お前にはやらんぞ!」

 前言撤回。貴様ら、ヤマト屈指の文化財を何だと思ってやがる。
 シヴァロマは頭を抱えた。デオルカンは我関せずとばかり、壁際であくびをしている。眠くなると凶悪な顔が幼く見えるのが不思議だ。双子の自分も、睡魔に襲われればああなるのだろうか。気を引き締めねばならぬ。

「お前はコウ・ユーリンにすればいいだろ!」
「能力が恋占だけではねえ。タカラ・シマからはまだ色々と引き出せそうで」
「うるさい! ずっと前から目をつけていたのだぞ」
「外戚を作るのが目的ですから、貴方も彼もヤマト以外の家のほうがいいでしょう? 我が母の生家は志摩を援助できますが、志摩の政敵である薩摩のご実家はどう仰ってるんですか?」
「母の家の意見で結婚相手を左右する気はない!」

 アーダーヴェインにしろアジャラにしろ、タカラ・シマを玩具にすることで頭が一杯だ。本日は阿呆のようではあったが、タカラ・シマなりに精一杯のパフォーマンスをしたろうに、そんなことは露ほども話題に登らぬまま、微妙な理由で選ばれそうになっている。
(貴様ら、貴重な文化財を何だと……)
 憎たらしいタカラ・シマなど兄弟に押し付けてしまえばいいものを、シヴァロマの性格上、出来なかった。
 シヴァロマは無言で立ち上がり、白熱する二皇子の部屋を後にする。デオルカンは立ったまま寝ていたので放置してきた。
 待機していた皇軍警察の将校に足を用意させた。行き先は、志摩にあてがわれた宮殿だ。

 渦中の人物、タカラ・シマ。
 連れてきた少年兵と一緒に、噴水で水遊びをしていた。半裸で。とりまく使用人が無我の境地に達した表情で彼らを見守っている。エントランスの絨毯が、洪水を起こしていた。
「若ーっ、もう一回、もう一回!」
「わはははー、それー」
 そんな格好で戯れているので、少年趣味でもあるのかと思いきや、ただ遊んでやっているだけらしい。少年の一人に水をぶっかけて笑っている。かけられたほうも、猿のような声音で喜んでいた。ここは、動物園か。
 しかし、タカラ・シマもやがて此方に気が付き、笑顔が凍りついた。さすがにそのくらいの頭はあるか。心臓に剛毛は生えているようだが。
「しばっしばろま皇子。なぜ此処に」
「洗浄ポッドはどこだ」
 何より、まずそれだ。水しぶきが僅かにかかった。この服も、もう着られない。

 全身を滅菌消毒し、清潔な衣服に着替えてひと心地つけた。人の宮殿の一室で好みのウォッカを一杯煽る。呑まねばやっていられない。
「あの、シヴァロマ皇子殿下……」
 所在なげにタカラ・シマが現れた。此方も着替えている。花魁衣装よりはもっと大人しい意匠のワフクだ。
 シヴァロマは顎を上げた。
「単刀直入に申す。私と婚姻を結ぶか」
「へっ」
 間抜けな顔で目を見開き、かと思えば、タカラ・シマはみるみるうちに黄色い肌を紅潮させた。
「本気で仰っているので?」
「私が、この夜更けに、冗談を言いに此処へ出向いたと?」
「いえっ! ただ驚いただけで」
 皇帝を前に「あちき」と言ってのけた豪胆さは何処へやら、そわそわ視線を彷徨わせて指先を弄る。よく分からぬ男だ。

 部下が書類とペンを置く。
「で、どうする」
「もちろん、喜んで!」
 てっきりアジャラから求婚されているものと思ったが、タカラ・シマは二つ返事で、何の躊躇もなく、婚約書に署名しようとする。この警戒心のなさ。話に聞く限りでは、かなり用心深く食えない男のはずだったが……
「軽はずみだな。深く考えよ。私はこの婚姻に政略以上の価値を見出さん。まともな結婚生活などないと思え」
「殿下こそ、よろしいのですか。俺などで。俺はご覧のとおり、がさつで、大雑把で、雅からは縁遠い男なのですが」
「そんなものは、デオルカンで慣れている」
 噴水遊び以上に途方も無い真似を、あの双子の弟はしてのける。あんなのはデオルカンのしでかすことに比べれば、可愛いものと言えた。あの弟は気がつけば生き物で血の海を作り、噴水遊びをしているのだから。

 けっきょく、タカラ・シマは嬉々としてサインした。間違いがないよう、シヴァロマもその場でサインする。
「では、挙式は三ヶ月後とする。志摩で行うゆえ、準備するように。資金はこちらで出す。それと、我が実家の出席はない……我々双子は母の家と疎遠でな。その援助がないことも留意せよ」
「はい。俺は、シヴァロマ殿下と結婚できるだけで満足です。ああ、これからは、婿どのですね」
「………」
「婿どの。宜しくお願いします」
 そう言って、タカラ・シマは目尻に朱色のアイシャドウを顔をふにゃふにゃと綻ばせる。
 シヴァロマの胸のうちに、何かむず痒い、消化しきれぬ感情、感覚が起こった。喜びともつかぬ、嫌悪ともつかぬ……だが、彼の人生に今まで無い経験のため、感情の名も、理由も分からず、ただその場を後にした。

 これは、規律。規律に従うための、政略結婚。本当はしたくもないが、規律だから仕方がない。規律、規律……


***


 タカラは浮かれきっていた。憧れのシヴァロマ皇子。声をかける糸口もなく、諦めていたのに、あちらから求婚してくださった。
 本当に一目見たいだけだった。それはあの花魁道中の最中で果たしたのだ。皇子はタカラのほうを見てもおらず、顔を背けて退屈そうに酒を煽ってらした。望みはなさそうだと、重ねて自分を納得させたものだ。それが、どうだ。

「シヴァロマ皇子はなー、本当に格好よくてなー、もひとつ格好よくてなー」
「うるせえ! 結婚する前から惚気んな!」
 誰彼構わず捕まえては、嬉しさを爆発させる。惚けたタカラに少年兵でさえ、近寄らない。仕方ないのでむりやりクラミツを捕まえて、さらに惚ける。
「皇子が助けてくださった話もさんざん聞いたし、その皇子に憧れて海賊退治するようになったのも聞いた。散々、聞いた。何十回も聞いた」
 それほど飽きずに話し続けた相手と結婚できる喜びプライスレス。
「うひょぁあああ……きょげぇえええ」
 抱えきれない幸運に日がな一日、奇声を発して巨大ベッドを転がり続けるタカラ・シマ。宙軍一同「変な人だと思ってはいたが、ここまでとは……」と呆れている。

「それにしても、いくら憧れてても本当にシヴァロマ殿下でいいんか。俺だったら、一番結婚したくない相手だがな。やることなすこと逐一文句言われて、神経すり減らしそうだ」
「俺は文句言われても気にしないほうだから、相性はいいと思う」
「気にしろよ! シヴァロマ皇子が可哀想だろ!!」
「失礼します」
 執事がノックもせずに乗り込んできた。王族に仕える使用人としては、首が飛んでも文句の言えぬ無礼である。だが、それだけに切迫した雰囲気がある。

「アジャラ様が―――」

 執事が言い終えるのを待たず、扉が飛んだ。
 当然、その前に立っていた執事も、飛んだ。人間がバウンドして墜ちる様を見たのは、あの時以来だ。
 シヴァロマ皇子が海賊をなぎたおした、あの時以来。
「あ、アジャラあにさま?」
 二人目の皇子が候補者の宮に足を運ぶなど、異例ではなかろうか。タカラがクラミツに目配せするか否や、大股で歩を詰めたアジャラが、タカラをベッドに縫い付けた。
 いつでも明朗で優しいアジャラの顔しか知らぬタカラは、狂犬のごとく歪んだ表情に言葉もない。

「どうしてシヴァロマなんかと婚約した!」

 なんか、とは何か。
 アジャラには報告するつもりでいた。そうか良かったな、余り物にならなくて。くらいの返答があると、むしろ祝ってくれるものとばかり思っていた。
『余ったら、貰ってやる』
 アジャラはそう言った。余らなかったのだから、良いではないか。
「お前は私の玩具にするんだよ! 幼い頃に海賊にかわるがわる犯されて、平気な顔をして帰ってきた王子がいると聞いた時から、ずっとだ。どんなふうにすれば、そいつの顔は歪むのかと――楽しみにしていたのに」
「……は?」
「いいけどな、シヴァロマを殺せばいい! シヴァロマを殺してお前を奪い、即位してお前の妹のナナセハナを妃にしてやろう。壊れた人形になったお前は綺麗に飾っておいてやる。それを見た妹がどんな顔をするか、今から楽しみだな!!」
「………」

 タカラはゆっくり、首を傾げた。理解が追いつかない。いま、なんといった? 会うたびに可愛い可愛いと抱き上げて、肩車をしてくれ、遊んでくれたあのアジャラが。
「俺……アジャラあにさまのこと、本当のあにさまみたいに……」
「兄貴がこんなことをするのか」
 アジャラの大きな手が浴衣の裾に潜り込んだ。
「ひっ、あにさま……ほんとう、に……ほんきで……」
「ははは、なんだタカラ。下の毛を剃ったのか? そういう趣味か? 海賊にでもやられたのか?」
「きさ、ま……」
 下腹部を撫で、性器を弄ぶ手に、タカラも放心から脱した。海賊どもの男根を噛みちぎったあの日のような、煮えくり返る怒りが蘇る。
「貴様のような男を皇帝にしてたまるか! 貴様に妹はやらん!!」
「ここへきても妹の心配か。これは壊し甲斐があるなあ」
「ひふみ……」
「おっと」
 アジャラは掛けるタイプの枕カバーをタカラの口に突っ込んだ。タカラはかなり強力なウィッカーだが、口を塞ぐと簡単に無力化されてしまう。これほど至近距離で、これほどの怪力に抑えこめられれば尚更だった。

「んんん」
「よしよし、いい子だぞ。おとなしくしろ。シヴァロマを殺したら、すぐ結婚してやる。壊すなんて嘘だ、ナナセハナにも興味はない。大事にするぞ、本当だ。お前が欲しいんだ」
「んうーっ」
 性器を執拗にこねくり回されると、男の悲しいさがで変な気分になってくる。アジャラは巧妙にタカラの抵抗を封じながら首筋に舌を這わせ、乳首を撫でた。
「う、んっ」
「そうかそうか、ここが感じるのか? やっぱり男の味を知っている分、敏感だな。何人相手にしたんだ? もう尻だけでイケるのか?」

 腐乙女の頭ん中だけでなら、タカラは突っ込まれるだけで潮もふきまくるし妊娠もするのだが。

 残念ながらリアルのタカラは痛みしか感じたことがない。それでも合意の上でなら我慢できると思っていた。それが務めなら。大好きなあにさまのアジャラであれば……喜んで体を重ねたろうに。
 あの優しいあにさまは、もういないのだ。いや、最初から存在しなかったのか。長男で嫡男のタカラはいつも頼れる一方で、時には投げ出したくなった。兄が欲しいと願ったこともある。アジャラが本当の兄だったら、どんなに良かったかと。
 まさかシヴァロマが求婚してくるとは夢にも思わなかったから、最初からアジャラと結婚する気でいたのに。こんな裏切りはあんまりだ。
「うぅっ……うんん…ん、ぅ」
 悲しみが怒りを凌駕するころ、体から力が抜けた。先走りまで出ているのかアジャラの手がぬめっている。薄笑いを浮かべたアジャラの指が、硬く窄んだアナルの口へ滑る。
 が、その指に犯されることはなかった。
 それどころか、アジャラの体が失せ、重量感も消える。
 代わりに目の前にいたのは、ニヴルヘイムの冷血皇子だった。
 寝台の前で例のデンドロビウムみたいな愛銃を担いだシヴァロマは、それによって殴られ転がり落ちた兄弟を傲然と見下ろしていた。

「他人の婚約者に手を出すとは、ヴェルトール法5692条に反するな。おまけに皇子は皇子を殺害しても罪にならん」
「シヴァロマ!」
「ここで脱落するか、アジャラ。俺はそれでも構わん。元より貴様を皇帝にする気はさらさらない」
「タカラ、無事か!」
 大急ぎでシヴァロマを呼んで来たのだろう。クラミツがシーツでタカラを包み、抱き起こしてくれた。あの執事も救出してくれたらしい。気がつけばこの部屋にはいない。

 一触即発の様相で対峙する皇子二名。シヴァロマが述べたとおり、アダムアイルは同族殺しを許容している。蟲毒の虫のように争わせて数を減らし、優秀な者だけを残すことで今日まで存続してきた。
 彼らにしてみれば、いずれ殺し合う間柄。それが今でも一向にかまわぬのだろう。
 だが、タカラはこの二人の死体など見たくはなかった。

「吹っ切って放つ、さんびらり!」

 印を切った二本の指をアジャラに向け、神言を唱えた。タカラの体内に埋め込まれたデバイスが室内に専用仮想次元を展開、言霊が意味を持ってアジャラの意識を刈り取った。アジャラのアダムアイルらしい巨体が音を立てて崩れる。
「アダムアイルをこうも容易く落とすか」
 白目をむくアジャラを心底侮蔑した瞳で見下ろし、シヴァロマは枕元へ近寄ってきた。この血族は背が高いので、一歩が異様に広い。
 シヴァロマはそこで跪き、クラミツに肩を抱かれるタカラの手をとった。手袋ごしとはいえ、潔癖症の皇子に触れて貰えるとは貰えず、まごついてしまう。
「兄弟の犯行を許したことを謝罪する。未然に防げる事件であった」
「俺も悪いのです。たぶん、アジャラ様を傷つけた」
 余ったら俺のところに来い。あれが子供じみたアジャラの精一杯のプロポーズだったのではないか。皇子にああ言われたのに、ほかの皇子と婚約するなど、確かに無神経だ。
 アジャラは頭に血がのぼってああ言っただけで、本心は違ったのかもしれない。でなければもっと前にタカラを無理やり己のものとして、弄ぶこともできたはずだ。
 まだアジャラを信じたいだけだろうか。

 と、シヴァロマは眉を顰めてタカラの手を離す。彼の不興も買ったかと怯んだが、そうではなく、皇子は懐からクリスタルの小瓶と清潔そうなハンカチを取り出し、ハンカチをシュッとひとふきしてからタカラの首筋を几帳面に拭った。
「吸い痕ついてる」
 クラミツがそっと耳打ちしてくれた。アジャラに口づけられた箇所を、消毒されたらしい。
「怪我はないか」
「はい、おかげさまで―――」
「洗浄ポッドへ入るがいい」
 昨晩の求婚時とはうって違う、優しい声で促された。この皇子の場合、それでも硬質だが、元を知っているだけに明白な違いが出る。
 洗浄ポッドを勧めるのも、潔癖性の皇子にとっては最大限の気遣いだろう。それがうれしくて、タカラは微笑んだ。
「ありがとう、婿どの。やっぱり貴方でよかった」
「そうか」
 特に感慨もないのか、皇子の声音は記者会見でよく聞くつっけんどんな調子に戻っていた。

 タカラが洗浄から戻ると、既にシヴァロマの姿はなかった。失神したアジャラも消えたので、婿が連れ帰ったのだろう。
「おまえがシヴァロマ皇子を選んだ理由がちょっと分かったよ。皇族じゃ一番マトモなお方かもな」
 アジャラに傷つけられ、消沈するタカラに付き添ってくれているクラミツに、そうだろと弱々しく笑い返した。


***



 皇子の婚約相手が発表されると同時に、腐乙女界だけでなく仮想次元全体がその話題でもちきりとなった。
 中にはタカラへの批判、シヴァロマへの批判、この二人が結婚することへの悪い意味での嘆きもあったが、そんなことは気にしない。元より、タカラとシヴァロマはやることが過激なのでそういうものは多かった。中にはタカラに潰された海賊の残党や、かつてシヴァロマに逮捕された犯罪者もいるだろう。
 それからデオロマ|(デオルカン×シヴァロマの略称)クラスタとタカクラ|(同様にタカラ×クラミツ)クラスタはお通夜の様相で、覗いた瞬間にトークルームをそっ閉じ。

 しかし、大半は祝福のやりとりである。
 特に嬉しかったのは、シヴァロマ×タカラ、通称ロマ若が流行したことだ。今まで宇宙規模でほんの一握りしかいなかった超ドマイナーのカップリングが一挙に人気を博し、日に千と言わず数万の作品がギャラリーに投稿され、ロマ若と題されたトークルームがウン十万と乱立した。
 よくもこの短期間にここまで、という数のウ=ス異本が発行され、シヴァロマ効果で宇宙中から『たから千代』への注文が殺到、製紙が追いつかない嬉しい悲鳴。

 タカラもこっそり、バーチャルブックや個人制作アニメを購入した。というか廃人並に課金している。腐乙女の妄想力は逞しく鋭い。これだけ母体が大きいと、名を馳せたプロも多く、その重箱の隅をつつく洞察力にタカラ本人が唸るほどだ。
 タカラの誘拐事件は、元より有名である。しかし、それを救出したのがシヴァロマであるとはあまり知れていなかった。今までは。
 ロマ若が流行ってからすぐにこの事実関係は割り出され、雷のように伝播し、この婚約はこの時に運命の出会いを果たした二人の昔からの約束であったという見解が一般化している。

 それが本当だったら良かったのだが、残念ながらそんな事実はない。

 八歳と十五歳の出会いから今までの期間についての捏造ストーリーが、多種多様なネタで展開されたウ=ス異本を仕事の合間に読みあさり、寝不足で頭が働かない。
 おそらくあの潔癖皇子が相手では一生ないだろうロマンチックなキスに悶え、シヴァロマの愛の告白でもう、たまらない。
『そなただけを愛している、タカラ|(※シヴァロマはそなたとか言わない)』
『お前は宇宙で最も清潔だ|(※実際に言いそうで困る口説き文句)』
 リアルでシヴァロマに言われたい台詞ランキングは『見事だ』『大した手腕だな』『礼を言おう』と婿に認められたい願望で占められているが、捏造であればアリアリ。
 そしてここまで文化が定着すると、いずれ仮想が現実に干渉しそうで大歓迎。

 とはいえ、この騒動も嬉しいばかりとはいかなかった。
 まず最も問題となったのは、タカラの偽物が仮想次元に何名も出没したことだ。
 これは志摩の面子に関わるゆえ、皇軍警察を抑えて自らの手で逮捕した。いくら皇軍警察元帥が婿とはいえ、自治権を持つ志摩が嫡男の偽物の逮捕を他所に委任できるわけがない。
 おかげで慣れない宇宙全域の仮想次元にジョイントダイブせねばならず、骨が折れた。この捜索はタカラや志摩宙軍のウィッカーだけでは手が足りず、ナナセハナにまで手伝わせている。親父どのは宥めすかして黙らせた。親父どのを関わらせると、余計な問題をこしらえかねない。
 ただ、この事件のおかげで、シヴァロマと通信する機会が増えたことにだけは、感謝している。

 それから余波というか、タカラにとっては苦いことに、アジャラ×タカラの人気も高まった。
 アジャラは結局、誰も選ばなかった。デオルカンと同様に独身表明をしたのである。
 今まで誰にも気に留められなかったが、ヤマト王族の定例会や夜会で熱心にタカラを構うアジャラの様子はマスコミに撮影されており、今でもその記録が仮想次元に出回っている。
 今までは単なる微笑ましい姿と報道されていた。しかし、タカラがシヴァロマと婚約し、アジャラが急に独身表明したというのがあまりに意味深で、人々は様々な事情を邪推してくれた。
「お家の事情で二人は引き裂かれた」
「タカラはアジャラを愛していたが、泣く泣くシヴァロマと結婚することに」
 アジャタカ界でのタカラは一貫して悲劇のヒロインだ。ロマ若界では潔癖症で経験のない皇子の童貞を腐界のビッチことタカラが食い散らす話からリバーシブルまでネタに事欠かないにも関わらず。

 ちなみにタカクラ・クラタカ界でもこの傾向は強い。タカクラの場合はクラミツが悲劇のヒロインだ。但し、タカクラでもタカラに比重を置く腐乙女は攻め受けイケる両刀のタカラを堪能しており、クラミツ派のタカクラ乙女の顰蹙をかっている。同じCPが好きでも、色々あるらしい。

 そして兄の話題沸騰の煽りで、なぜかナナセハナ人気も高まった。ウ=ス異本カルチャーは腐乙女だけが担っているものではない、萌え漢も多く存在する。萌え漢にとってナナセハナはもう女神のような扱いで、ウ=ス異本も多い。
 自分のことは好きに料理してくれて構わぬが、妹をウ=ス異本で陵辱する真似だけは絶対に許さない。絶許。
 ウ=ス異本で題材にされる実在の人物の肖像権侵害は親告罪だ。限りなくダークなグレーである。あのジャスティス・イズ・グローリーの異名を持つシヴァロマが放置している程度のダークではあるが、確かに訴えれば勝てる。

「俺のナナセを汚す奴は、何人たりとも許さん。ウィッカーよ、咒いたくば咒うがいい。倍々返しだ。ヤマト文化財志摩神道次期当主タカラ・シマをなめるなよ」

 萌え漢にもウィッカーは多く、実際に攻撃は多く受けた。というか一部の腐乙女からも受けた。まあ、こんなことは王族商売柄よくあることだ。ただでさえ、思い上がって志摩神道を負かしてやろうという輩はいて、今更の話だ。
 またこうした輩を返り討ちにするのは志摩の信仰を高める上で役立つ。信仰とは価値だ。価値は志摩の力となる。
 ただ、余計な仕事は増えた。

「あにさま、顔色が悪いです。もうじき挙式なのに」
 昼も夜もなく、ずたぼろの肌で僵尸のごとき色をしたタカラを、ナナセハナが窘める。
 基地まで態々出向いてまでの叱責だ。それも、ご大層に眠たげな親父どのまで連れて。
「あと一週間なのですよ。もうお休みくださいまし」
「此方としても休ませたいのですが、あまりに手が足りないのですよ」
 クラミツが申し訳なさそうに謝罪する。この男は昔馴染みのタカラをぞんざいに扱うが、ナナセハナには目上の姫君として接した。
 ちなみに仮想のNL界ではクラミツ×ナナセハナことクラナナが王道だ。
 ナナセハナが即位した皇子の何れかに嫁がないなら、タカラとしてもクラミツに妹を任せたいと考えている。というか皇帝であろうと嫁にやりたくない。何処の馬の骨とも知れぬ男にもやりたくない。どうしてもナナセハナをやらねばならぬなら、苦楽を共にした親友が良い。

「なら父様をお使いくださいまし。一週間のことですし、私が責任をもって見はります。この期間にお父さまがしでかしたことは、すべて私が責任をとります。そういうつもりで励んでくださいまし、父様」
「働きたくないでござる」
「たまには働いてくださいまし!」
 愛娘にぽかぽか殴られ、カサヌイはやに下がっていた。人のことは言えぬが、親父どのはナナセハナに甘い。
 クラミツ以下宙軍は揃って迷惑そうではあったが、こんな当主でもウィッカーとしての習熟度はタカラの遥か高みをゆく。
 そういうことなら久々に親に甘えることにした。何しろタカラの顔は日に日に隈が濃くなり、むくみ、血色が悪くなる一方だったのだ。

「じゃあ、悪いけど休ませてくれ。流石にこの顔で婿どのをお迎えしたくない。切腹したくなる」
「ああ……まあ、酷い有り様だからな。よく働いたよ、おつかれさん」
 そういう自分も暫く不眠不休で働いているというのに、そんな素振りも見せずにクラミツは主君を労った。こういうときのクラミツは「抱いて!」と言いたくなるほど男前である。
「挙式までは、私が兄さまの結界も担当いたします。呪い返しは中断なさいまし。他のことはせず、体調とお肌を整えてくださいましね」
 少し前までふにゃふにゃぽえぽえのアホの娘だったのに、成長したものだ。
 結界にかけてナナセハナの右に出る者は、この宇宙にいないと断言していい。タカラほど多様性のあるウィッカーも珍しいが、この結界にかけるナナセハナの力量はヴェルトール史上例のないものと褒めそやされるほどで、タカラの神言などナナセハナの禹歩ひとつで全て弾かれる。というか、タカラに限らず彼女の結界を破ったウィッカーは今のところ、存在しない。
 実はタカラより、ナナセハナを標的にしたウィッカーのほうが、ずっと多い。彼女を打ち負かせば宇宙一を名乗れる。しかし、彼女はほんの幼い頃から全てを黙らせてきた。志摩の守護者は、本当は妹のほうだと思う。





 一方宇宙の片隅で―――
「なんで、あんなヤツがこんなに人気あるのよ!」
 と髪を引き毟る女の姿があった。

 彼女は美の崇拝者だった。不細工には生きる価値がない。一般人ならまだしも、皇王族は美形が前提だろう。
 そころいくと志摩は一家揃って顔面偏差値は下の下|(当社比)、彼女はタカラだけでなくナナセハナも気に入らなかった。あんなカマトト女の何がいいのよ! そう思っている。
 志摩には皇族なみに美しいと評判のクラミツ・シマ様がいらっしゃる。だというのに、なぜ世間はタカラ・シマを持ち上げるのか。

「なんでって、皇族並ですから。クラミツ様くらい珍しくないっていうか……」
「トークルームが荒れるので皇王族の方々の批判はやめてください。不謹慎です」
「どうせ構ってちゃんだろ。スルー推奨」
「アンチは帰れ」

 どれほどトークルームで正論を訴えても、愚鈍なバカ女は考えを改めない。中には彼女に同調する輩もいたが、どいつもこいつも頭のおかしいメンヘラばかり。あんなのと一緒にされたくはない。彼女の思想はもっと崇高なのだ。
 また、タカラ批判の萌え漢も見苦しいことこの上なし。お前らがしたいのは批判ではなくやっかみだろうと。
 その点、彼女は軽率で無様な萌え漢どもとは違う。性別すら違うのだから、嫉妬の対象にはならない。と少なくとも彼女は信じており、その考えを疑いもしない。

「タカラ様が嫌いな人は、一度ハシリガネで志摩に行くといいですよ」
「旅行の時、気張って重い荷物を持ってちゃったんだけど、タカラ・シマ様がそっとあたしの荷物を取って『お手をどうぞお嬢さん』ってぇ!! 一生の思い出よ!」
「すっごい明るい方で、ちっとも気取らないっていうか、船旅の最中よくお話できるのよね」
「少年兵の面倒見も本当によくて、船内での訓練風景とか凄く微笑ましい。クラミツさまとツーショットが見れると幸せ」

 反吐が出るような絶賛の嵐。
 皇軍警察元帥の婚約者でヤマト文化財志摩次期当主の王子の悪口など、言ったその日にリアルで首が落ちても文句を言えないほどの不敬罪なのだが、シヴァロマもタカラも批判者から情報を得て犯罪者を割り出しているので放置されているだけという事情を彼女は知らない。

 そこまで言うなら、行ってやるわよ!
 彼女は志摩ゆきを決意した。もちろんタカラ・シマおよび当主一家をこきおろすネタを探しのためだが、クラミツ・シマ様をこの目で見たい。
 かくして彼女は五十年ぶりに|(現代人類の平均寿命は200歳)集合居住惑星の自宅から一歩踏み出したのだった。
 しかし何分、体が鈍っている。その気になれば一生涯、外へ出なくとも生きてゆける昨今、彼女のような一般人は珍しくない。貨物用モビルギアを購入しておくべきだった。
 旅行荷物ともなれば相応に重く、乏しい体力を奪う。中皇星の中継ステーションに着く頃には力尽きており、志摩ゆきの船着場でへたりこんでいた。

「――お荷物お持ちしましょうか?」

 何処かで聞いた声音。
 彼女は弾かれるように顔を上げた。桃葉紋の制帽から覗く、朱色の隈取。タカラ・シマだ。
 現実で他人から声をかけられるなど、百年以上なかったこと。彼女の職業はグラフィックパタンナーであり、仕事はすべて仮想次元で行っていた。メールやトークルームでのやりとりはあれど、生の声は久々で、すっかり萎縮してしまった。
 何のかんの相手は王子様、彼女より遥かに身分の高い相手だ。
 しかし、怯んだのを認められず、また混乱して「さっさと持ちなさいよ!」と怒鳴りつける。

 タカラ・シマは驚いて切れ長の目を丸くした。そんな彼と彼女の間に、腕が一本差し入れられた。タカラ・シマを庇うように現れた、クラミツ・シマ様だ!
「いかがなさいましたか。この方は志摩次期当主タカラ・シマ様です。お客様といえど、我が主君への無礼は許されませんよ」
「落ち着け、クラミツ。ご覧のとおり、お客様はお疲れで状況判断が出来ないんだ。さ、お荷物お持ちしましょうね、お姫様。クラミツ、彼女を船室までご案内しろ」
「はいあぃ」

 何という幸運だろう。クラミツ様の長く艶やかな黒髪をうっとりしながら追う。たまさかに横顔を見上げれば、長い睫毛に彩られた伏し目がちの瞳が見えた。狐のような顔をしたタカラ・シマとは大違いの黒目がちな瞳だ。
「先程は申し訳ございませんでした。あれでも次期当主なので、立場上とがめない訳にはいかないので」
「いえ、そんな……」
 耳が孕みそうな低く心地よい声音に震えながら、彼女の声は1オクターブ上がっていた。
「それと、少年兵の中には若への無礼に過敏なのがおります。奴らはまだ子供で加減というものを知らんので、お客様を保護する目的もありました。俺が先に出れば、奴らも満足しますから」
「あの少年兵は実戦に出るのですか」
 自分の身が危険だったことより、それに反応した。子供を軍で引き取ったことにも批判は多いのに、無礼を働いた客へ襲いかかるほど戦闘訓練を受けているなど―――

 実験施設にいた子供たちはもともと軍事用に育成されたウィッカーである事実は一般にはふせられており、彼女の知るところではない。

「実戦に出ねば成長しませんよ。大人になったからと急に酒を呑んで中毒で死ぬ奴が続出するのと同じことです。子供のころは守られて、大人になった瞬間死なせていい道理はない。海賊との白兵戦は基本的にハシリガネ船内では行われず、敵船で行われるので少年兵の戦闘をお客様の目には触れませんが……ま、基本的には我々正規兵が少年兵を監督しておりますので、滅多なことはありません」
 実際、志摩宙軍の少年兵に死者が出たという話はない。これは皇軍警察が毎年きっちり調べて公表していることなので、隠蔽工作は通用しないだろう。なにせあの相手はシヴァロマ……
 と言いたいところだが、彼女は思い直した。
 そう、可哀想なシヴァロマ皇子は、何か弱みでも握られてタカラ・シマの毒牙にかかったのだ。もしかしたら、もしかするかもしれない。
 彼女はニヴル双子皇子推しであった。なんといっても、皇族の中でも群を抜いた美を誇っている。

 ピギーバックペイロード船シマ・ハシリガネは外装ほど中は古くなかった。一面赤い絨毯びきで、ロビーには桃のテクスチャが飾られており、その花びらを唐傘が遮る畳のカウチがあった。窓枠も雅な檜枠で、木材自体が珍しい昨今の宇宙では贅沢だった。
 客室の扉も、なんと和紙で飾られた麩である。触れてみると立体映像ではなく、リアルのものだ。噂に高い『たから千代』の和紙をこれほど大胆に……名前は気にいらぬが、その美には感動を覚えた。
 流石に格安ツアーだけはあり、船室自体はシャワールームのごとく狭い。小さな棚があって、ベッドがある。足の踏み場が二歩あるかないかという程度。
 それでも宇宙が見える障子窓や、照明となるヤマトの灯籠は見事だった。ベッドに敷かれた寝具など、動物の毛がふんだんに使われており、まるで雲の上で寝るかの心地。
 食事も、バイオプリンタで生成された食料とは違う、土から育った野菜や果物は五臓六腑に染みわたる味だった。また、それらを食べて育った獣の肉は舌の上で蕩けるようで、今まで食べていたケミカルミートがどれほど味気なかったかを思い知る。

 志摩観光は、ハシリガネに乗るだけでも価値がある。
 その論評だけは素直に認めざるをえない。

 が、問題はここからである。ハシリガネにはもうひとつ名物があるのだ。それが目当てで常連化している客も多いらしい。
 彼女がハシリガネに乗って二日目、日光浴ルームで読書をしている最中に、船内にスクランブルが響いた。
『ご乗船のお客様にお知らせ申し上げます。ただいま志摩所有のソノ・ブイから敵船情報を受信しました。ただいまよりピギーバックペイロード船シマ・ハシリガネは戦闘態勢に入ります。はいあぃ』
「やったあ、海賊退治だ!!」
 無邪気な御子様が飛び上がって窓に齧りつく。
 観光客を乗せたままの戦闘など危険極まる行為だが、ヤマトでは黙認されている。彼女も乗船する際「格安ツアーですので死んでも文句を言いませんように」という書類にサインさせられていた。
 宇宙での旅は常に危険と隣り合わせ。どれほど護衛艦がついていようが、撃沈される時は、される。そこをいくと今まで死者を出したことのないハシリガネは安全そのものと言えるが、とにかくタカラ・シマの気に入らない彼女はその書類にも反感を持っていた。

 その不満が、実際に海賊に襲撃され、膨らんだ。五十年も自宅に引きこもっていた彼女には刺激の強いことだった。
 しかも、ちょうど彼女が乗り合わせたこの便は、ちょっとした伝説に残る事件が起きた。
「あれ、おかしいな」
 窓を見ていた子供が首を傾げた。
「何か、船の数が多―――」

 ビーッビーッ

 無機質なスクランブルが再度けたたましく響く。
『ご乗船のお客様、それから志摩宙軍にお知らせです。敵は艦隊を組んで突撃してくる様子。クラミツ、シノノメ! ギアモビル『オモイカネ』『ヒヒイロカネ』に搭乗し待機せよ。
 ただいまより、シマ・ハシリガネは九十九システムに移行します。ちびども、久々に俺の操舵テク見せてやっから、管制室に来い』
 客への連絡と宙軍への連絡がごっちゃになった放送だった。
 続いて、改めて客への連絡が流れる。
『ご乗船のお客様へお願いがございます。ハシリガネは百年以上親しまれた船です。ヤマトでは、九十九年の時を経た道具には魂が宿るという信仰があり、九十九システム起動中のハシリガネは生きて(・・・)います。
 従って船内の飛行タレットなどの防衛モビルギアからお掃除ロボまでが自分の意志で動き回るようになります。九十九システム起動中、彼らは機械感応による支配を受けつけませんので、ご安心ください。
 ……ところでクラミツー、あのエクラノプランの動力部落とせる?』
『オープン回線で聞くな! やればいいんだろ』
『お、出来んのか。愛してるぜクラミツ』
『気色悪い』
『若ー、このコンソールパネル何?』
『九十九で呼び出してないパネルが勝手に立ち上がったら、ハシリガネが「これ必要だと思うんだけど」と相談してきてると思え。必要なければ無視して構わない。で、今回の編成は有人モビルギア二機と、それからモビルギア支援のアビオニクスとダミービームと機雷と……』
 おまけにオープンでレクチャーまで始めてしまった。

 彼女は光浴室を出て、最も大きな窓のある展望ラウンジに移動した。既に大勢の乗客が海賊退治を見物しようと集まっている。命の危険に晒されているというのに、呑気な連中だ。
 この展望窓は、普段は装甲で覆われている。この緊急時になぜ腹を見せているのだろうか。客の命より見世物が大事とでも言うのだろうか?

 ――実際は「当たったら即死」のため装甲があろうがなかろうが関係ない為だが、例によって彼女は以下略
 どのみち、彼女の思う通り危険なことに変わりはない。

 しかし、一面の透過素材の向こうに見える武装艦隊は圧巻だった。あれに一斉射撃されたら、どうするのか? モビルギア二機とオンボロ貨物船だけで。
『お客様にお知らせです。少々揺れるので歯を食いしばって何かにお掴まりください。それから慣性装置の働いていない区画への移動もご遠慮ください。そろそろ戦闘開始です。来るぞ、クラミツ、シノノメ!』
『はいあぃ』
 タカラ・シマの号令に反応したか如く、敵艦隊が放射しながら突っ込んできた。凄まじい勢いで、巨大戦艦が迫る。窓いっぱいに怪物みたいな鼻面の機体が広がった時には生きた心地がしなかった。
 ふわっと腹が浮くような感覚がある。ハシリガネが急降下したのだ。足が掬われるように浮き、優しく包み込むように床が膝を覆った。痛みはない。
『見たかー、お客さんを乗せている時には、慣性装置を利用してスペーサーに船体をねじ込むんだ』
 あれだけの放射と艦隊を軽々回避しながら、まだレクチャーを続けている。

 と、後方へ行ったはずの敵船のひとつが、火を吹きながら前方へ流れていった。無惨なほど大破しており、中の人間は全滅だろう。
『……クラミツ、俺は動力部壊せっつったんだ、誰がデブリ作れって言った?』
『それどころじゃあねえ!』
『次ゴミ出したらオメー減俸処分だ。回収処理に金かかンだろうがっ。いいかチビども、デブリは敵だ! 海賊より敵だ』
 クラミツが操縦する戦闘機型モビルギアがラウンジの前を横切っていった。
 可哀想なクラミツ様。こんな不利な戦場で無能上司に無茶振りされて。撃破したらデブリが出るなど、当たり前ではないか。
 そうこうするうちに例の怪物船(エクラノプラン)が再び立ち塞がった。
 ぐるぅ、と振り回されるように身が揺れて、壁にとんと押されて止まる。酔いそうだ。何が操舵テクだ、揺れてばかりいる。

『くーらーみーちゅー』
『すいまっせんした! もうしない、もうしないって!』
『若、何を怒ってるので?』
 少年兵が訊いたくらいなので、このやりとりの真意はタカラとクラミツにしか分からない。
 実はクラミツ、支援母艦なしの艦隊戦でかなりテンパっていた。そのせいでタカラはクラミツのミスをそうと分からぬようフォローしながら、攻撃を回避しつつ機雷とダミービームで敵を撹乱し、本来なら全滅してもおかしくないところで踏ん張った。
 クラミツはエースである。彼が浮足立てば、後方支援のシノノメも動揺する。皇軍であれば処刑ものの大失態をやらかし、それを主君に隠蔽させたのだから、クラミツが焦るのも無理はない。

 何がどうなったのか、やがてエクラノプランが沈黙。今度こそ、クラミツ様はその華麗なテクニックで無能上司の命令を遂行したのだ。モビルギアを操る美しきエースパイロット。素敵だ。
 それをあんな聞こえよがしにオープンで叱るとは、一種の醜い示威行為に相違ない。やはりタカラ・シマ、憎むべき存在だ。

 彼女は志摩に到着してから、志摩邸宅で一般解放されている露天風呂で男湯を覗き、タカラ・シマの全裸を盗撮する。自慢のグラフィック技術で数千にも及ぶ卑猥なコラージュを仮想次元に流し、淫行疑惑を浮上させたうえでシヴァロマとの婚約を破綻させようと目論んだが、程なくして皇軍警察に逮捕された。
「なんでよ! タカラ・シマのエロ本なんかいくらでもあるじゃない!」
 と彼女は訴えたが、あくまでそれはイラストとして描かれた場合。似顔絵はあくまで似顔絵、その人物とは別物として扱われ、名前は記号化する。作者が同名の別人だと主張すれば否定する手段はなく、悪魔の証明になるからだ。
 しかし、写真は言い逃れ出来ない。どれほど萌え文化が繁盛しても皇王族のアイコラが出回らない訳を、彼女は理解していなかった。

 かくして、憎きタカラ・シマと敬愛するシヴァロマの挙式は、彼女が獄中に繋がれている間に行われたのである。ショッギョムッジョ。


***


 シヴァロマ皇子の挙式を一目見るために、大勢の人間が志摩へ押し寄せた。惑星全域の民宿までもが稼働し、当日は祝言の前に惑星の何箇所かを並んで歩く姿を臣民にお披露目する手はずとなっている。
 特にシヴァロマは露出の少ない皇子だ。メディアに登場するとすれば記者会見ばかりで、まずこのような保養地を歩く姿など目撃されない。そもそも彼は休暇をとったことがないのだから。

 ニヴル皇族専用船ヨルムンガンドが重厚なエアーを発しながらゆっくりとステーションに降り立った。
 テラの伝承にあったという、世界竜の名を冠した漆黒の宇宙船は、その名に恥じぬ風格を備えている。装甲はオブシディウム合金、装備は主砲一門で、あとはモビルギア格納ハンガーのセルハッチのみである。
 通常の母艦では一つから少数の飛行甲板のみだが、ヨルムンガンドでは全戦闘機を一度に出撃させられるらしい。
(あれとやりあったら、ハシリガネなんか一溜りもなかろうな)
 苦笑しながらタカラ・シマは搭乗口を見上げいていた。万が一、シヴァロマが双子のデオルカンと決裂した場合、デオルカンが双子の後援たる志摩に攻撃する可能性はなくはない。このヨルムンガンドと同じ船で。
 皇族を迎えたからには、相応の覚悟も必要だ。そろそろ軍備の調整を考慮すべきか。海賊からかっぱらってきた良い装備は売らずに溜め込んでいることであるし。

 ミドガルズオルムが口を開けた。漆黒の船体にぽっかり穴が表れるので、妙に目立つ。ボーディングブリッジが地に伸びて、シヴァロマ皇子が姿を見せた。
「よくおいでくださいました、婿どの」
「うむ」
「こちらが志摩当主カサヌイ・シマ、こちらは妹のナナセハナ・シマです」
「そうか」
 皇子は婚約者の血縁、ヤマト文化財にも少し目をやって頷くのみだった。

 タカラは本日、お引き摺りの和装である。裾は仮想テクスチャなので汚れはしない。が、歩き方には注意が要る。足の長い皇子にはちんたらした歩行が鬱陶しいようだ。
「市民にお披露目せねばなりませんから、ご辛抱なさいませ」
「分かっている」
 という返事も、実に苛々していた。

 ステーションから出ると、仮設バリケードの外から人々がわっと歓声を上げる。無愛想な婿に代わって手を振り、志摩邸宅に入る。
「すぐに別地方に飛びますが、まずはおくつろぎください」
「ああ」
「洗浄ポッドや風呂の用意もありますが……」
「構わん」
 頷きはするが、全くリラックスする様子がない。緊張しているのではなく、これが彼の常なのだろう。軽食や酒を出されても、シヴァロマに用意したソファでじっと前を見つめるのみだ。
 タカラのほうは、遠慮なく軽食をぱくついていた。自分が好きに振る舞うことで、シヴァロマの気持ちをほぐしたかった。まあ、好物の里芋田楽が食べたかっただけでもある。甘辛味噌の焼き団子も実に絶品。

 程なくして志摩邸を出発。南地方までスカイライナーでひとっ飛びして、分社のほうまで田園地帯を歩いた。収穫が終わった後なので風景が寒々しいのが残念だ。
 そして分社にて昼食。さすがに、シヴァロマは料理に口をつけた。
 皇族たるものあらゆる食器の扱いを心得ているらしく、箸さばきが巧みである。しかし、焼き魚には箸をつけなかった。栗きんとんはお好みだったのか、全てたいらげた。この分だと薩摩芋もお好みかもしれない。そのうち薩摩から仕入れよう。

 南分社を出て次は北へ。ちょうど八つ時なので、北分社では柚子きり蕎麦や白玉ぜんざいが出た。
「若さま、白玉はたんとおかわりがありますから沢山食べてくださいね」
「わーありがとー」
 ふくふくした下膨れの顔をした巫女のおばさんに甘えて、蕎麦を二杯、ぜんざいを三杯おかわりした。最後に志摩茶と漬物を頂いて、大満足。

 それから東西と裏側の分社を巡り、人々に愛想ふりまき、夕食の祝い膳に舌鼓を打っていると、これまで口を開かなかったシヴァロマが勘弁ならぬという表情でタカラを睨んだ。
「……どれだけ食うのだ、お前は!」
「ふほっ」
 もぐもぐ、ごくん。
 鯛の塩釜焼き美味しいです。
「黙って見ておれば、貴様、朝から行く先行く先で延々食っておるではないか」
「ほうでふ?」
「はしたない! それでも王族かっ。食うか話すかどちらかにせよ!」
「………」

 ぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱく

「……食うのをやめぬか!!」
 怒鳴られて、最後の一口を嚥下する。そしてへらっと笑った。
「婿どのは、少食ですねえ」
「予定があるのにそう腹を満たせるか」
「腹が減っては戦が出来ぬですよー。軍人たるもの、食べられる時に食べねば」
「一理あるが、貴様、体脂肪率はどうなっている」
「たいしぼー率……」
 首を傾げ、腕を組み、考え込んでから、
「腹は出てないし、鍛えてますし、でぶって言われたことないから大丈夫かと」
「明らかに消費カロリー以上のエネルギーを摂取しているだろう!」
 ご不興をかってしまった。
 しかし、このくらいで堪える性格なら、クラミツは苦労していない。天ぷらが冷めるので食事再開。あ、ごはんのおかわりお願いします。
 婿どのは頭を抱えてしまった。

「………初夜までにはその腹の中身を残らず洗浄しておけ。胃の腑にも残すな」
「初夜!?」
 驚きのあまり、飯が喉に。圧迫感に苦しんで胸元をどんどん叩く。
「んぐっ、初夜はないかと思っておりました」
「規律は規律だ。仕方あるまい」
 実に嫌そうだ。検分があるでなし、ヤったことにして口裏を合わせれば済むのではなかろうか。
(初夜……初夜か)
 確かに一応、全身磨いてあるが、実感はなかった。

 それと、休養中に房中術を習うには習ったのだが、男根の張り型にどうにも我慢ならず、咥えると必ず噛み砕いた。強顎は健在だ。
「そのように皇子殿下まで噛みちぎってしまうおつもりですか!」
 と先生に叱られ、まず尺八で馴らすことに。
 日がな一日尺八をぴろぴろすることによって、尺八の腕が上達した。そのうちハシリガネで披露しようかと思っている。フェラチオンのほうは全く上達しなかった。相変わらず、それっぽい形のものはキノコだろうがドアノブだろうが噛みちぎる。もはや習性だ。
 シヴァロマが強制さえしなければ問題ないはずだが、どうだろう。先に言うべきだろうか。


 しかし、その晩、心配は杞憂であったと思い知らされる。


 形ばかりの心のこもらない祝言の後、さんざん腸洗浄して床で待ち構えているところへ、Dスーツ姿のシヴァロマ皇子が現れた。宇宙服である。バックエアがシュコーシュコーと酸素提供していた。完全防備にも程があるだろう。
「あの……そこまでして寝る必要ありますかね」
「規律は規律だ」
 腹を決めた男の声音だ。
「タカラ・シマ。貴様は受け身の経験はあるか」
 覚えてなかろうとは思っていたが、自分がタカラを救出したことだけでなく、タカラが誘拐された事件自体、ご存知ない様子。
 ここまで綺麗さっぱり忘れ去られていると却って心地いい。素直に「ないです」と答えた。腐界では何千万人の男と寝たか知れないタカラだが、ほぼ処女同然である。セカンドバージンというやつだろうか。違うだろうか。

「ではそのように扱う」

 皇子が指を鳴らすと爆音が響き「すわテロか!」と慄くが、どうも皇子が指を鳴らした音らしい。どういう材質の骨なら、あんな音が出るのだ。
 外からワラワラと皇軍警察官たちが突入してきた。特殊部隊さながらの動作である。実際、特殊部隊なのかもしれない。
 志摩宙軍では逆立ちしても及ばぬ見事な身のこなしで、彼らは様々な機材を持ち込み、テーブルの上に各種小物を揃える。志摩側でも準備したが、ローションや張り型くらいだ。
「閣下、ご武運を!」
 ざっと一列に並んだ警官が敬礼して退去。

 唖然とするタカラを尻目に、婿は窪みがある謎のブロックを二つ、寝台の上に置いた。
「横になれ」
 前へならえ、と同じ語調の号令である。言われるままに、のそのそベッドに上がって仰向けに寝た。
「わひゃ」
 無造作にとられた足首を大きく開かされ、思わず肌襦袢の裾をおさえる。下には何も着けていない。
 シヴァロマはそういった初夜の相手に一切かまわず、例のブロックに腿を乗せ、上から同じブロックをかぶせて足を固定させた。もう片方も同じように拘束される。このブロック、見た目よりずっと重く、マットレスに食い込んでいる。大きく開脚して局部を晒す間抜けな状態にひきつる。
 次に、シヴァロマは帯を外さぬままタカラの合わせを下ろした。何やら腕まで上手く動かない。
 露わになった乳首に、コードのついた吸盤のようなものをつけられた。押し当てると空気が吸いだされてきゅっと締まる。変な感覚だ。
「うわっ」
 急に尻穴が濡れる。何をされたのかよく分からない。が、婿が防護手袋でポンプを持っている様子を見る限り、ローションかワセリンと推測される。
 それから彼はコードのついた不思議な突起物ついた棒? のようなものを持ち、
「苦痛はないと思うが、耐えろ」
「何を!? うひぎゃ」
 躊躇なく突っ込んだ。
 タカラには分からなかったが、例の『棒のようなもの』は前立腺を刺激する形状になっている。
 大した大きさではないので、痛みはない。が、ちくちくする。

 もうそろそろ見栄を張って「ヤリケツマンビッチですぅウヘヘ早く突っ込んでカモン」とでも言えば良かったと後悔し始めた。痔くらい現代の医療機器ならすぐに治る。入れてズコバコしてそれで終るなら、そのほうがましだった。
 というのも、シヴァロマが持ち込んだ機材、変態御用達・調教用の逸品らしい。かなり後になってから知った。様々な犯罪に関わってきた彼は、この機材が誘拐された婦女子に使用される現場に踏み込んだこともあり、それで知っていたとか。
 因みにこの機材自体は、違法ではない。あくまで合意の上で使うことを前提とした製品だ。アホほど高価だが。仮想次元のショップを覗いて後悔した。

 そのような事情を知らぬ今現在のタカラ・シマは、乳首と尻を襲うぴりぴりした刺激に混乱していた。
「ひぁっ、ぁ…あ、あんん……」
 思わずそんな鼻から抜けるような声が出てしまう。時折大きな波がきて、体が勝手にビクビク跳ねた。じわりとした熱が性器に溜まり、触られてもいないのに反り返ってどろどろ先走りで腹を濡らしていた。
「あぁはッ…んぅう。ひッ、んっ……ひ、ぁ……んぁあ」
 きゅうきゅう乳首を締めつける吸盤が断続的に痛痒い。尻は……どうなっているのか自分で分からぬが、焼けるように熱いし、括約筋が切なくて器具に食いつく。何やらもどかしい。指を突っ込んで掻き毟りたい衝動に襲われる。治りかけの傷がじんじん痒みを訴える感覚に、近い気がした。
「そろそろか」
 腕を組んでタカラが悶える姿を監視していた婿どのが、尻の器具を引き抜いた。もっと優しく! ちゅぽんと音を立てて一気に出たものだから、衝撃で腰が痙攣した。

「あ……あ、あ…あぁ」
 だらしなく舌を出してぼろぼろ涙を流す。これが所謂アヘ顔というやつなのかそうなのか。目はきっとレイプ目というものになっているに違いない。
 しかし、これでやっと合体してズコズコして終われる……と安堵したのも束の間、下準備はまだ終わっていなかった。
「ぎゃっふ」
 また何か突っ込まれた、今度は黒くて萎んだ何かを。

ピッ、ピッ―――

 規則正しい機材の電子音とともに、尻の中の器具が膨らみ、アナルが拡がる。それ以上は、と目を瞑るところで、プシューと空気が抜けた。
「はぁっ、はぁ……っ」
 何だろうこの謎の緊張感。気分は分娩台に乗せられた妊婦。機材のリズムがラマーズ法に似ていて余計に嫌だ。
 ピッピ、と更に器具は膨らんだ。もうだめ、と思うところで、再び萎む。もう一度。更にもう一度。二度あれば三度。
 だんだん慣れてきた、とすっかり疲弊して天井を見上げて油断するころ、それは起こった。

ヴ…ヴヴヴ……ヴー、グリュングリュン

「ひぎっ…うぎゃあぁあ…!」
 なんと中の器具が振動しながら膨らんだり萎んだりしながら、アナルの縁をマッサージし始めたのだ。中に小さな揉み玉が入っているらしく、回転しながら絶妙に襞をもみもみと。
 さんざん拡張されたので痛くはない、痛くはないが……
 尻穴の裏(・)から揉まれる(・・・・)経験など、そうはなかろう。あってたまるか。

ヴッ ヴッ ヴ プシュゥウウ……

 止まった。漸く止まってくれた。今度は生理的な涙ではなく、安堵の涙が頬を濡らす。タカラはこの時はじめてマリッジブルーを覚えていた。
「あぅ」
 すっかり緩くなったソコから器具がにゅるんと引きぬかれた。途端、ゾクゾクした快感が全身を奔り、背を反らせて打ち震える。
 すっかり改造された我が身が恐ろしい。これが腐界でよく見る『ケツマンコ』状態か。これがそうかそうなのか。仮想次元だけのファンタジーだと思っていたが、信仰を持って実現してしまったのか。ということはいずれ、突っ込まれるだけで潮吹きまくりイキっぱなしになるのか。死にたい。

 これだけの入念な処理を加えてから、ようやく、シヴァロマは自らの手でタカラの腰を掴み、立ったまま、Dスーツから出た謎の突起……完全密閉された分厚いゴム状の突起物を、押し当てた。中身はおそらくシヴァロマのペニスだろうが、ねえそれヤったことになります?
「あ…ん、はぁっ」
 先端がずるんと押し入ってきた。何というか、この時点で相当、穴が広がっている。大した巨根だ。なるほど、あれくらい拡張しないと、これは入らなかったろう。
「お前……」
 久々に婿どのが言葉を発した。が、タカラはまともに受け答え出来る状態にない。
「やはり過剰摂取ではないか! なんだこの柔い肌は!!」
「あんっや…やぁん!」
 そんな叱りながら、ずっぷり奥まで。やばい、気持ちいい、もう何だっていい。

「胸筋も大殿筋もこのように!」
「ひぃっ、ちゃ、ちゃんと腹筋割れっあっあっ」
「あれほど食して遅筋繊維ばかり鍛えていればこうもなろう!」
「あ…、いやぁ…っ、ゆる…し、あうぁあぅうう」
 時間をかけて調教したとはいえ、始めてなのにこの仕打ち。文字通り、ズッコンバッコン。固定された足が動く範囲で暴れ、つま先は丸まる。更に言うと、吸い付いたままの乳首の吸盤が地味に辛い。
 というかこれは、何プレイというのだろう。お仕置き? 何か違うような。そもそも初夜でお仕置きプレイもどうだろう。
 それからタカラの名誉のために追記しておくと、別に彼は肥満体ではない。むしろ身長に対してウェイトがなさすぎる程だ。ただ、よく食べる割に体脂肪率を気にしないのは確かで、痩せぎすではなく肉付きはよい。体脂肪率を親の敵のように憎むアダムアイルの皇族からすると、白いもち肌が妙にむっちりして見えるのだ。

「全く……!!」
「あっあっああっ」
 激しく腰を使いながら、皇子は苦々しく吐き捨てる。
「次までにそのけしからん肉体を鍛え直すがいい!」
「へ、なに…?? あ、や! やあっ……!! ッんぁあああッん」
 何か変なじわじわした強い快感の波が押し寄せ、頭の中が白く染まる。耐え難い快楽が神経を犯し、タカラはガクガク震えながら力尽きた。

 タカラから巨根を引き抜いた皇子は「フン」と鼻を鳴らし、添い寝するでもなく出ていった。あのスーツで添い寝されても、それはそれで困るが。
(……あの皇子、よく勃ったよなあ)
 呆然と手足を投げ出したまま、タカラはそのことに感心していた。


***


 近頃のシヴァロマ皇子の朝は、令夫人との通信で始まる。
『おはようございます、婿どの』
「ああ」
 その声で目覚めた殿下も、心なしご機嫌が良さそうだ。

 お部屋の壁に映し出される令夫人、タカラ・シマ様は指定された時間に秒単位できっちり通話をかけてくる。几帳面な殿下はこのことに満足されていらっしゃるようだ。
 映像のタカラ・シマ様は詰め襟姿である。シヴァロマ皇子も船上で過ごされることの多い御方だが、彼も早朝から仕事モードでいらっしゃることが多い。
 しかし―――お二人の通話を眺める、警護の軍警察官は、令夫人の姿に思う。こんな軍人がいるものかと。
 ヤマト人のタカラ・シマ様は、皇軍人から見るとあまりに小柄だ。一般人と比べればそれなりに鍛えているが、とにかく恵まれた体を鍛えに鍛え抜いて絞るガチムチ皇軍人の目には華奢にさえ見える。もし彼が皇軍に入れば、その日のうちに誰かの女にされているだろう。争奪戦で血の雨が降るかもしれない。
 おそらく、アダムアイルのごつくしい皇族として生まれたシヴァロマ皇子にも、そのように感じているはずだ。
 尤も、王族は大抵、男子もこのようなものではある。そもそも王侯貴族が軍人であるケースも少ない。その必要のない身分だ。

 タカラ・シマ様は美しい。皇族に及ぶところではないが、皇軍人に美貌は求められないのでシヴァロマ皇子に見慣れていても『美貌』と呼べるほどには美しい。
 最初はシヴァロマに似合いのきつい美人だな……と感じていた側近たちも、日々の通話を聞くうちにその印象が180度変わってしまった。
「貴様、今日の今朝のは何を?」
『今日は諸用でかなり早くに起床しましたので、その時に握り飯を五個、具はおかかと梅干しと豚の角煮と鮭といくらと蛸わさで、皆と一緒に朝食をとっておかわり三杯しました』
「食べ過ぎだ!!」
『あはは』
 泣き喚くワガママ貴族も黙るシヴァロマ皇子の一喝を受けても笑ってらっしゃる。何というか、大らかな方だ。

『そうそう、婚約した日に植えた千年桃花の盆栽が、だいぶ大きくなりましたよ。春には花をつけるでしょう』
 嬉しそうに植木を抱えて笑うお顔は、大変かわいらしい。シヴァロマ皇子が保護する形での結婚で、その事実をこの王子は知らぬはずだが、シヴァロマ皇子を素直に伴侶として慕ってなさるようだ。
 婚約の日に植えたとはまた、いじらしいことをなさる。
 カロリー過剰摂取に腹を立てていたシヴァロマ皇子も「そうか」と怒りを鎮めてしまう。この方の激昂を一瞬にして宥めるとは、ある種の才能だ。尊敬に値する。

 このような方がシヴァロマ皇子のお相手であることは、喜ばしいことだと思う。
 まず心臓が弱い方だと、シヴァロマ皇子の突然の噴火で失神しかねない。繊細で臆病な方であれば精神を病むだろう。
 タカラ・シマにはどちらの心配もない。見ていて安心感がある。
 それに、シヴァロマ皇子はあまりに滅私してヴェルトールの治安維持に務められた御方。休暇をとった日が一日たりともなく、人間らしい娯楽も知らない。何しろ、皇帝陛下と母妃の意向で五歳の時から皇軍警察に入り、醜い犯罪や悲惨な事件を処理されてきた。
 恐ろしいことに陛下は、ご自身のご子息を万引き犯の逮捕や酔っぱらいの取り調べなども幼いうちに経験させた。母妃は皇子に子供らしい遊びをさせることさえ一切許さず、甘えという甘えを彼から奪った。
 双子のデオルカン皇子は自由を許されていたにも関わらず、である。
 このあたりの事情は、王族ですらない一皇軍人である側近たちは知らない。しかし、あまりに酷いではないか。シヴァロマ皇子が潔癖症であるのも、人の温かみがない……とされるご気性や冷酷な部分も、無理からぬことだ。

 タカラ・シマ様と会話される朝のひと時、皇子の表情は心なし、柔らかい。
 しきたりのため仕方なくした結婚だからこそ、皇子の冷えきった心を溶かすきっかけになればと願わずにはおれない。

 しかし、皇子の穏やかな日々は、突如として終焉を告げる。
『……おはようございます、婿どの』
 昨日まではころころとよく変わる表情を見せてくれた令夫人が、何やら思いつめた様子で朝の挨拶を告げたのだ。シヴァロマ皇子も何事かあったかと、刑事の顔で向き直る。一種の職業病だ。
「何があった」
『何でも……』
「何でもという顔ではない。志摩に問題があったならすぐに報告しろ。伴侶の星に何かあれば、俺の責任となる」
『志摩は、関係ないです」
「では、何だ。はっきり言え」
 シヴァロマ皇子は苛々と声を荒らげる。この方は怒りはするが辛抱強くもある。どうも、タカラ様の変化に焦っている、ような……もしや心配なのか?

『………』
 その日の令夫人は和装であった。外星系の者からすると手術着のようにも見える、白い合わせ。たっぷりした袖を合わせてもじもじしているように見えた。あの服装は、そうすると胸元が見えそうで見えないのが何とも言えない。
『……が』
「なんだ」
『婿どのがっ! 来ないからっ……!』
 おもむろに令夫人は合わせを掴んで左右に開いた。ぶぼっ、という声は隣の同僚。
 タカラ・シマの細いのに肉づきの良い白い胸元で、赤く熟れた乳首がぷっくりと勃ちあがっていた。
『婿どのがあんな機械を使うから、こんなになってるんですっ! なのに放置プレイ一ヶ月目突入! なんすかこれ! 服が擦れるたびにじんじんしてっ』
 涙目で訴える令夫人。あれは確かに辛かろう。

 シヴァロマ殿下がどのような顔をされているかは、警護の者には見えなかった。スクリーンを見上げて硬直し、無言だ。
『子供たちがじゃれて、うっかり此処を触ろうものなら大惨事ですよ! 変な声漏れて若どうしたのって。ゲップ出たとか苦まぎれの言い訳レパートリーも在庫切れです! どうしてくれるんですかあ』
 そのような状態で一ヶ月苦しんでいたというのに、今日の今日まで我慢されていらしたのか……
 警護の者は同情した。いや、同僚。同僚よ。口元おさえて前かがみで皇子の伴侶のB地区をガン見するのはやめなさい。確かにこのところ色気の欠片もない任務続きで息抜きも出来ない状況だったから気持ちは分かる。しかし殿下に殺されるぞ、あのデンドロビウムみたいな愛銃で。
 あの容姿は反則だと思うのだ。老け顔の多い外星系の者からすると、ヤマト人は成人しても子供に見える。

 いわば合法ロリ

 そういう印象を、他星系出身者に与える。ヤマトの王子の中でも特にタカラ・シマは特に幼く見えた。あくまで外星系の者からすれば、という話ではあるが……
 加えてあの志摩伝統の朱色アイライン。妙に色っぽい。この王子は流し目がちなつり目をしていて、あの瞳で見られると、誘われているような錯覚を覚える。
 おまけにあのけしからん肉体は何だ。細い。細くて小作りなのに、微かに浮いた筋肉の筋がうっすら脂肪に覆われ、全体的にむっちりふっくりして見える。おまけに腰がしなやかだった。そしてあのAカップ程度の胸筋が却って卑猥。

「…………」
 シヴァロマ皇子は、顔を片手で覆って俯かれた。
「解決案を模索しておく。今日中にだ。それから明日から音声通話にするように」
『うぅ…早めにお願いします』
「分かっている」
 乱暴に通話を切り、ふぅ……と疲れた溜息をついてから。
 ツンドラの瞳が警護の者を射抜いた。

「ヨクマサカル、バック」

 前かがみの同僚がびくっと肩を揺らした。もう一人も冷や汗を伝わせる。ヨクマサカルは同僚の名だ。そしてバックとは……控えの後輩と交代しろ、と意。
 皇子の怒りが解ければ戻れるが、出世コースから遠のいた。
 肩を落とす同僚に「お前悪くねえよ!」と目だけで励ました。彼は力なく頷いてから、すごすご部屋を退出してゆく。
「ヨクマサカル先輩には申し訳ないですが、自分はこのチャンスを精一杯活かしたいと思います!」
 若手でありながら成績を認められて控えにいた好青年の後輩。
 彼も翌日、出世コースから去っていった。

『ぅ……ふっ、むこどの………ん、ぁ』

 緊張走る皇子の室内。響き渡る音声オンリー。
『んん…あふ、おはようござい……』
「…………………貴様、何をしている」
『だって』
「昨晩に届くよう、乳絆創膏を届けてやったはずだが!」
 ニップレスです皇子。乳絆創膏ってなんですか。
『……あんなのっ! 根本的な解決にならないじゃないですか』
 令夫人の言い分も尤もだ。
 あの機材を用意したのは自分なので分かるが『不感症でも五分で肉奴隷』がキャッチコピーの極悪調教機だったのだ。言いつけられた際、皇子の頭を疑ったが、我が身可愛さで注進もせず命令に従ったことを後悔している。
 皇子は此方の方面に疎く、過去の事件で知ったこの機材なら初夜に役立つだろうと深く考えず購入したのが、仇になった。

『ふっ、ぇ…ふぇえ……まえだけじゃ、たりなくて、どうしたらいいんです。うしろになにか入れればいいんですか』
 肉奴隷仕様にされたというのに放ったらかしの王子は、体が切なくて泣いてしまっているようだ。
 この王子、声はちゃんと低くて明朗なのだが、妙に腰にクるというか、無邪気な性格のせいか嬌声も嫌味がない。あの一見きつそうな目でぽろぽろ涙をこぼし、柔らかそうな唇で嗚咽を漏らしているのかと思うと……
「まて、おちつけ。話せばわかる」
『おなかがちくちくして、ひっく、んぁ、あ…ぁん』
「…………!!」
 皇子が乱暴に髪を掻き乱した。長く仕えているが、あの皇子がこれほど取り乱す姿は初めてかもしれない。
「おちつけ! この部屋には他にも人間がいる!!」
『!!!!!?』
 婿だけでなく、警護の者まであられのない声を聞いていた。
 そのことに気づいて驚いた令夫人は、即座に通話を切る。

「トリテラン、バック!!」

 仕事一筋で女っ気のない職場で悶々としていた可哀想な後輩が、鼻血を噴いた咎でチャンスをその日のうちにふいにする。
 不意打ちとはいえ、夫人に欲情するなど確かに罰されても仕方のないことではあるが、それにしてもシヴァロマ皇子にしては感情的な処断のように思えてならない。
 自分は長年鍛えた鉄面皮で何とか耐えたが………
 あれはしょうがないでしょう、ねえ。


***


 皇宙軍の仕事は主に訓練、演習、訓練と訓練、軍備調整、紛争の鎮圧、敵対エイリアンへの威嚇、逆に友好エイリアンへの軍の貸与などが該当する。
 多忙と言えば多忙だが、ひっきりなしに宇宙を奔走する皇軍警察と比べれば閑職とさえ言えた。
 双子の兄は、五歳の時分からそのクッソ忙しい罰ゲームのような職務をやらされていた。同時期にデオルカンも皇宙軍に放り込まれたものの、シヴァロマよりはマシな境遇だった。
 性格的に向いているとは思う。
 が、向いているのと限界は別問題。

「どうした、兄者」

 真昼のニヴルヘイム宮殿で、神経質な堅物の兄が酒のボトルをいくつも空けている。
 デオルカンが部屋に入る前から手を祈るように組み、そこに額を預けて憔悴した様子。これは、ただごとではない。生まれる前から一緒だった兄のこのような姿は、今までなかった。
 他人などヘモグロビンの詰まった袋程度にしか考えていないデオルカンだが、この兄には負い目がある。
 ニヴルの双子皇子は実験的な教育対象者だった。片方の大人しい子供は徹底的に厳しく躾け、片方の奔放な子供は大らかに育てる。その結果がこの、人間らしい楽しみを何一つ知らない憐れな男だ。
 彼を束縛する母妃を殺害したのは、せめてもの償いだった。母妃がいては、この先彼が人間性を得る機会さえ失われてしまう。
 この男は、女を抱いたことがない。興味すら抱けない。好意を抱くということが、どういう意味かさえ知らない。休み方も遊び方も知らない。娯楽を楽しめない。食事を美味いと感じることさえない。
 酒を呑むのは苦痛やストレスを誤魔化す為。それも普段は一杯ひっかける程度だ。

 そんな双子の兄が、自暴自棄に酒をくらっている。何事かと思う。
「………」
 既に相当呑んだのか、据わった目がデオルカンを睨みつけた。親の敵のように。いや、そういえば親の敵だったか。
 シヴァロマはボトルを掴んで前に突き出した。
「呑め」
「おう。貴様、どうしたというのだ」
「未だかつてない怒りに囚われて己を保てぬ」
 短気ではあるが、最後の一線で留まるシヴァロマが、己を保てぬほどの怒りで酒に逃げたと。
 注がれた酒を煽り、しげしげと双子を見た。常にきっちり整えられているプラチナブロンドがほつれて額にかかっている。
 彼はテーブルを拳で叩いた。勢いで端が粉砕。

「あのタカラ・シマには我慢がならぬ!!」

 なるほど、合点がいった。
 保護目的で結婚したはいいが、あのお気楽極楽あっぱらぴーの王子とは根本的に合わなかったのだろう。初めから無理があったのだ。
 しかし、夫婦喧嘩はデオルカンも食わぬ。
「嫌なら離婚してしまえ。外聞など気にするな」
「誰が離婚すると言った?」
 心外、いや不快だと言わんばかりに吐き捨てる。シヴァロマは恋人どころか友達すらいた試しがなく学ぶ機会もなかったろうが、会わない人間と無理して付き合ってもストレスが溜まる一方で得られるものなど何ひとつない。傷が浅いうちに別れるべき。
 しかし、あくまでシヴァロマは結婚生活を続ける気のようだ。
「あやつはどう言っても食事を控えん。早朝、朝食、昼食、間食、夕食、晩食、間食、夜食で酷い時には日に十度も食う」
「見かけによらず大食漢だな。しかし肥満体にも見えんし(どうでも)良いのではないか」
「よくはない。男のくせに卑猥な肉体をしおって……!!」

 ?

 話の方向性が、どうも……
 シヴァロマは憤懣遣る方無しという調子で拳が白くなるほど強く握り、奥歯を食い締める。
「あの者の緩みきった笑い顔は張り飛ばしたくなる」
「ずいぶん嫌っているな」
「それだけではない。あの不道徳に漲った腿を思い出すたびに食いちぎりたくなる。いや、腿に限らぬ、あらゆる箇所の肉をだ。それにあの貧弱な肩はベアバックで力の限り砕いてしまいたい」
「いや、貴様、それは……抱きしめたいのではないか?」
「これほどの殺意を抱いたことはない! 罪なき幼い少女を何人も拉致し皮を剥いだ姿で飼っていた凶悪犯を処刑した時よりもだ!!」
「あー、あの事件、貴様それほど怒りを……いや待て、その程度の怒りだったのか?」
「俺にも、なぜこれほど腹が立つのかわからぬが、その衝動が全身を駆け巡っている。寝ても覚めてもだ。だが……」
 シヴァロマは項垂れた。何だこいつは。本当にシヴァロマなのか? 偽物か?
「アジャラから救出した際、あの男は今にも泣き出しそうであった。あの顔は見たくない……」
 殺してやりたいほど憎んでいるというのに、泣かせたくはない。
 言っていることは猟奇的だが、彼の欲求は全く別の方向にある。そのことが、彼には処理しきれぬのだ。
 デオルカンは兄の肩を叩いた。

「二十年以上、貴様は一日たりとて休息しなかった。もういい。俺が皇軍警察を請け負う。貴様は半年ほど休め」
「下らん。休暇など必要ない」
「貴様は自分の限界を知らんだけだ。といっても急に抜けられては困る、そうだな……三ヶ月後には志摩は春を迎える。ヤマトは桜が咲く時期だ。その頃に行け」
「…………」
 もっと激しく抵抗するかと思いきや、シヴァロマは考え込んだ。この機に乗じて皇軍警察を乗っ取る気か……などの疑惑も、一切口にしない。
 頭にあるのは寝ても覚めてもシヴァロマを悩ませるタカラ・シマの『張り倒したくなる笑い顔』のこと。





『昨日はすみませんでした、婿どの。はしたない真似を……』
 よほど堪えたのか、このシヴァロマ・ヨドルグ・ヲガ・ニヴルの喝にも怯まぬタカラ・シマがしょぼくれた様子で映像通話で謝罪した。高い詰め襟に制帽を目深に被り、顔もよく見えない。
 シヴァロマはそのことに舌打ちする。理由は不明だが、苛つく。この男はシヴァロマの逆鱗に触れる天才だ。

「謝罪する必要はない。あの機材がどういったものかは、知っていた。配慮が足りなかったことを詫びる」
『いや、まあ、その……もういいです。では、これで相殺ということで』
「お前がそれで良いなら、この話はここまでだ」
『へへ』
 何が可笑しいのか帽子の鍔を上げ、へらへら笑うタカラ・シマ。
 これだ、この顔だ。このふにゃけた顔を見ると、襟首を掴んで往復ビンタをかまし、無駄にふっくらした唇に齧り付いて窒息させてやりたくなる。
 他人の粘膜に口をつけるなど、シヴァロマの感性的にありえぬ不衛生な行為だが、どうにも歯の根が疼いて耐え難いのだ。
 だからと言ってタカラ・シマに「笑うな」と命ずる気にはならなかった。食事制限はさておき、どんな表情をしようがこの男の勝手。志摩は自治領で、志摩宙軍の主はこの男だ。軍人がにやつくべきではないと言っても文化の違いはあり、シヴァロマに口を挟む権利はない。

 とにかく話題を逸らすべく、シヴァロマは咳払いした。
「しかし、根本的な解決にはならぬ」
『そうですね……あの、婿どのさえよければ、俺、専門の人に頼……』
「あァ?」
『ひぃ』
 豪胆なタカラ・シマが小動物の如く身を竦ませる。反射的にチンピラやデオルカンのやるような下品極まりない威嚇をつい真似てしまったとはいえ、怖がりすぎだろう。
 おまけに唇を震わせて眉を下げてしまう。シヴァロマは、慌てた。ヘラついた顔はまだしも、この顔だけは見たくない。
「……三ヶ月後、俺は休暇をとり、志摩で半年ほど逗留する予定だ。仕事の合間にでも忍んでくるが良い」
『休暇!? 半年!? 本当ですか、婿どの』
「貴様は俺が冗談を言うために……」
『いや、別に疑った訳ではないので。ただ吃驚して。へへ、何だか婿どのが求婚してくれた日みたいですね』
「………」
『じゃあ、俺も同じ期間、休暇をとりましょう。実を言うと、俺もまとまった休暇をとったことがないんです』
 この男の場合、航行中に手が空いたり、コンディション調整のための期間を設けたりはするようだが、その間も当主代理としての仕事は絶えぬらしく、実のところ似た者同士だったのかもしれない。
「三ヶ月間、耐えられるか」
『はい、大丈夫です。うわあ、楽しみだなあ。へへへへへー』
「………」
 男児がにへらにへらと締まりなく笑いおって、全く………

 しばき倒したい

 通話を切断してから、ニヴル皇子シヴァロマは脳内で伴侶の頬を思うさま抓る想像で己を落ち着かせつつ、モーニングコーヒーを傾けた。
 とはいえ、昨日の遣り切れぬ激情は綺麗に消えていた。デオルカンの指摘通り、疲れていたのかもしれぬ。タカラ・シマは人を疲れさせる。
 その疲れさせる相手の元に休暇へ赴く矛盾について、彼は深く考えなかった。


***


 ところがだ。
 たかが三ヶ月、常のように流星のごとく過ぎ去ると疑いもしなかったシヴァロマは、生まれて初めて時の流れの遅延を感じていた。
「シヴァロマ皇子、犯人の声明文です!」
「人質の無事は確認されません。敵の数はおよそ数百名、最新鋭銃火器を装備しております」
「ご指示を!」
 複数の回線からの報告を聞きながら、シヴァロマは虚空に浮かべた仮想パネルを忙しく操作し、各陣営に指示を送る。
 何やら腰が重く、前頭葉のあたりが朦朧とする。体調管理を怠ったのか。いや、そんなはずはない。母妃のことは今でも憎悪しているほどだが、それでも健康に関する教育だけは感謝していた。

 本陣から見える位置に火の手が上がった。モニタを移すと二足歩行軍事モビルギアが数機、テロリストの立てこもる大使館の前から光線兵器で周辺を薙ぎ払っている。
(軍事用モビルギアだと?)
 一体どの経路から流出した。
 いや、それより対策を。この展開は予測していなかった。まさか、このシヴァロマがミスか。いや違う、万が一に備えて装甲モビルギアを後方に配置していた。火器を外して前線へ置き、トーチカに。
 その指示操作の片手間に、シヴァロマは皇族専用ポートを空けて緊急連絡をかけた。

『なぁにぃ、アタシ今忙しいんですけど?』

 気怠げな声で応答したのは長女クラライア。アダムアイルが誇るゴリラ皇女である。
 彼女は何処ぞの寝室で下着一枚。ボコボコした筋骨隆々の足を晒し、同じく下着姿の黒い肌の女を抱いていた。
「クラライア! テロリストが軍事モビルギアを所持しているぞ。陸軍を回せ!」
 罵声が爆音、轟音に霧散しそうになる。皇軍警察はあくまで警察だ。戦争をするために存在する訳ではなく、陸軍(惑星で戦闘を行う軍の総称で、陸空海を兼ねる)の装備には敵わない。
『あらら、だいぶ困ってるみたいね。いいわ、その星系に駐屯する陸軍を回してあげる。でも、もう邪魔しないでね。見ての通りお楽しみ中なの』
『まあ、弟君ですか、皇女』
『そうよぉ、ヴィーヴィー。ご覧なさい、あの固めたような眉間の皺。あいつそのうち絶対ハゲるわ』

 余計な世話だ。
 嫁ぎ先の王女の額に口づける姉に苛つきながら、通信を切った。
(タカラ・シマめ!)
 なぜか怒りの矛先が伴侶へ向かう。
 やけに重装備のテロリストへの怒りも、軍事兵器が漏れたことへの怒りも、クラライアが女と乳繰り合っていたことへの怒りも、タカラに集結する。
 オリエントの王女ヴィーヴィーは、恥ずかしげもなく艶かしい脚をクラライアに絡めて甘えていた。あの女などどうでも良い。しかしあの、足の動きを見た瞬間、タカラ・シマが妖艶に微笑みながら己へ足を絡めるイメージが湧いた。あの男、この非常時にも邪魔だてするか。

 大体、昨日の晩もだ。付近の市街が炎に包まれる。昨晩、あの男は勝手に人の夢の中に現れ、事もあろうに見知らぬ男に抱かれてヨがっていた。トーチカが一つ吹き飛んで、空高く舞う。
(配置、迂回路から特殊部隊ステルス潜入準備。火器が足らんっ、通報では数十名だったはずが何処からこれほど増えた? 装備もだ!)
 テロリストはかなり計画的に犯行に及んだのだろう。大使館に装備とモビルギアを隠していた。そうとしか思えない。ということは政府側に手引した者がいたという事実に繋がる。
 そもそも、この星の自治軍はどうした? なぜ応援に来ない?

――ぁぁ、ん……婿どの…………

 なぜこんな時に夢の内容が脳内でリフレインする!!
 どこの馬の骨とも知れぬ男に抱かれながら、シヴァロマの名を呼ぶな! あの男が悪いのだ、専門の者に頼むとか何とか下らぬことで耳を汚すから―――!
「デオルカン、貴様も来い!! この星は内部分裂を起こしたのかもしれん、これは事件ではない、戦争だ!」
『おお、なかなか派手な戦場じゃねえか。こりゃ楽しめそうだ』
『ロマぁ、データ採りたいんで実験中の軍事用トランスアニマルそっちに送っていいですかぁ』
「急に割り込むな、アーダーヴェイン! 好きにしろ、但しトランスアニマルの命の保証はしないっ」
 これで戦力は確保出来た。
 とはいえ、陸軍の応援も宙軍の到着も、少なくとも今日ではない。あと数日は軍警察のみで持ち堪えねば。それも、全軍ではない。ほんの十分の一だけで、だ。全軍を投入しては他地区の治安を維持できない。
 シヴァロマの長い一日が始まった。

『婿どのっ! ご無事ですか、何か志摩に出来ることは!』
 硝煙と建築材の焦げた匂いが漂う戦地の本陣で、いつも通りの時間に通信をかけてきたタカラ・シマ。
(もう、夜明けか)
 戦況に神経を集中させていたシヴァロマの緊張の糸が、タカラ・シマによって途切れた。どっと疲れが全身を襲う。
「………俺は、無事だ。此処はヤマトから遠い、志摩宙軍はあくまで自治軍だ。貴様の裁量で軍を寄越してみろ、指導能力欠如と見做し、貴様を廃嫡させてやる」
『私軍なら問題ありませんね』
「まあ、私軍であれば……しかし」
『微力ながら助太刀させて頂きます。ご武運を!』
「………」
 敬礼だけは、一人前だ。
 何やら腹の裡、横隔膜だろうか。そのあたりが、痒い。神経痛か? 痛むほどではないが、もやもやする。肋骨付近が締め付けられるような、妙な感覚だ。
(タカラ・シマめ……)
 毒づきながら、浮かんだのは笑みだった。

 戦況は悪い。敵は宇宙から人員と装備を送っている。ヨルムンガンドが補給をある程度潰しているが、星の裏側にポッドを落とされると、もうどうしようもなかった。おそらく大使館には地下道がある。その捜索もさせているが、まだ見つかっていない。絶望的に人手が足りないのだ。
 いくらなんでも、辺境の星のたかか数十名だったテロの通報で誰がこんな展開を想定する。ほんの数時間で駆けつけただけでも表彰ものだ。
(軍事用兵器といい、何か大きな母体がある。軍警察本部からの連絡はない。情報を掴んでいないのか。どういうことだ? だとすればもしや、敵性エイリアンか)
 理屈に合わぬことが多すぎる。こういう時は大抵、人外生命体の仕業だ。ここまで大規模なのは近年なかった。
「殿下、ここは一時撤退を……」
「しかし、どう離脱する! 大気圏内でヨルムンガンドの支援はないぞ!!」
「特殊部隊が殿下の盾になります。殿下は皇帝となられる御方、我々はそう信じております。このような場所で御身を散らすなど、あってはなりません。令夫人も悲しまれます」
(死ぬ? 俺が死ぬだと)
 兄弟とやりあって命を落とすならとにかく、辺境のテロリストに敗れて死ぬ。

 まだ、タカラ・シマをこの手で抱いていない

 シヴァロマは常に全力を尽くす。故に過失があっても後悔はしない。
 だが、今、彼はどうしようもない後悔に襲われていた。なぜ、初夜のあの時にこの手で、何も覆わぬこの手で、あの肌を触れておかなかった。いつ死んでもおかしくないこの身の上で。
 部下がそこまで思いつめている事実、タカラ・シマに触れたいという欲求が自身にあるという事実に愕然とした。
「……撤退はせん」
 シヴァロマは愛銃を担ぎ、臨時司令塔装置から降り立った。
「ヨルムンガンドまで戻れる保証もない。この星を占領されれば後が厄介だ。せめて陸軍の応援が来るまで持ちこたえるぞ」
「はっ」
「随伴モビルギアを寄越せ。突入して敵兵器の数を削る」
 それが出来れば、暫く耐えられる。それが出来なければ、援軍が来るより先に消耗によって全滅する。ここが正念場だ。

 と、本陣付近の上空から青いレーザーが降った。まさか、衛星兵器か。ヨルムンガンドが破壊されたとでも?
 しかし、それは攻撃ではなかった。光が失せると共に、三体の丸いフォルムの蜘蛛型モビルギアが、足を上げて立つ。
 兵装は見えぬが、何だ? 敵か? もしやエイリアンの手先か。
 モノアイの中央に赤い点が灯り、モビルギアはぎゅるぎゅると首を回す。
『……ザ…ザー、あれ接続…おかし…婿どの、いますー?』
 不明瞭なノイズが晴れるころ、モビルギアはアームをぴこぴこさせながら左右に揺れた。このアホな動作。その発言。
「タカラ・シマか?」
『はいあぃ、タカラ・シマでございます』
『此方はカサヌイ・シマでござい』
『ナナセハナ・シマですぅ』
 他の二体までもが上下に身を振って踊りだした。援軍とは、まさかこれか。あれから大して経過していないのに、一体どうやってこんなものを……

『実は婿どのと結婚してから、思うところありまして、各星系の衛星バンクに遠隔操作モビルギアを預けていたんです。こうしておけば、婿どのに何かあってもすぐに駆けつけられるなーっと。早速役立つとはさすが俺』
『具体案は俺がしたんだがな、ガハハ』
 無能で有名な当主が自慢気に身を揺らす。
 しかし、衛星バンクになど兵器を預けられる訳がない。そんなことが出来ればテロリストが無限増殖する。従って、志摩親子がよこしたモビルギアも、ただ遠隔操作が出来るだけの鉄くずである。
「何をする気だ、そんな装備で」
『何って、あはは……婿どのったら疲れてるんですか?』
 確かに疲れた。貴様のせいで疲れた。
 駆動音を響かせながら、タカラ・ギアはモノアイを点滅させる。
『ヤマトが誇るウィッカーが三名、援軍に来たんですよ。もっと歓迎してください』
「……!」
 どうやら本当に半分眠っていたようだ。
 シヴァロマは部下を振り返り「ただちに随伴モビルギアを!」と指示する。
『ご覧のとおり、このモビルギアは遠隔操作ができて仮想次元を展開するだけの貧弱な装備です。さほど良い材質でもないので、走っているうちに関節が熱ダレしかねません』
「なぜそこで予算を削る」
『俺のポケットマネーじゃこれが限界だったんですよ!』
 全星域に配置するなら、王子の財力では無理がある。この短期間でよく用意したと褒めるべきだろう。無事に帰れたら、整備しなおしてやると心に誓った。

 トーチカを盾に気張る前衛部隊の背後に回り、現場から様子を伺う。
 殆ど廃墟と化した大使館の前には、三体の二足歩行ギアが見張りに立っていた。裏側にもう四体いるという情報をオペレーターから受信する。もうエネルギー残量もないのか、派手な掃射はしてこない。
『突っ込んでください、婿どの。何があってもお守りします』
 心強い言葉だが、シヴァロマは志摩の文化財どもに何が出来るのか、把握しきれていない。味方の装備を確認しきれぬ戦は怖いものだ。
 しかし、ウィッカーの能力を今ここで悠長に聞いてはいられなかった。
「信じるぞ、タカラ・シマ!」
『どーんとお任せくださいっ』
「………」
 シヴァロマは奥歯を喰いしめた。
 ああ、本当に、本当にこの馬鹿者は……


 生身で会ったら犯す


 シヴァロマは遮蔽物から無反動砲をぶちかました。一体の脇腹に活性酸素弾が炸裂し、機体が崩れる。敵機は倒れながら滅茶苦茶な方角に熱線を流した。付近の建物が一条の線を受けて爆発、その瓦礫の真下に味方が一名……
『神火清明、神風清明!』
 戦場に似つかわしくない愛らしい娘の声が何事かを唱えると同時、瓦礫が風に流されるかのように警官を避ける。実際、耳の側をゴッと風鳴が横切った。
『婿どの!』
 促され、シヴァロマはトーチカから躍り出た。一箇所にいては集中砲火を食らう。トーチカも最早もたない。
 味方が攻撃されてすぐに、他二体がレーザー砲を撃っている。その切れ間を狙ってトリガーを引くが、どうも狙いが定まらなかった。
『婿さまっ』
 ナナセハナ・ギアが横から襲うレーザーの前に立ちふさがり、円形のバリアを展開する。
 しかし、そこは安物のモビルギアである。
『あきゃあっ!?』
 熱で関節が溶け、無様に転がり落ちてしまった。最強の盾が早くも脱落。
『天切る土切る八方切る、天に八違い土に十の文字! 吹っ切って放つ!』
 いつか、アジャラに襲われていたタカラ・シマが唱えていた呪文を、今度は父親が唱えた。
 シヴァロマが仕留め損ねた半壊ギアが衝撃を受けて大使館の壁に激突した。しかし跳ね飛ばされながらカサヌイ・ギアに向かって熱線を発射、父親のモビルギアは原型すら失う。
『ひふみ よいむ なや ここのたり』
 父親とほぼ同時に詠唱していたタカラ・ギア。じゃっと車輪を滑らせながらシヴァロマの側についた。
『ふるべ! ゆらゆらとふるべ! 八握剣(やつかのつるぎ)!!』
 彼の言葉に反応したように、大地が震える。耐熱舗装路が地割れし、そこから巨大な刃が現れて三体目を串刺しにした。
(実像を伴う……?)
 シヴァロマは目を疑う。ウィッカーの力はおしなべて不可解なものだが、その中でも実像を伴うものは稀だ。ないとは言わぬが、あまり大規模なものは不可能らしい。
 ナナセハナのようにバリアを操る者は、他星系のウィッカーにもいる。念動力を使う者もいる。
 しかし、このような実像を伴う何かを呼び出すウィッカーは、他にいるのだろうか。まるでこれでは、魔法ではないか……
『婿どの、前門をクリア! 撤退を!』
 タカラ・ギアの声で我に帰り、シヴァロマは銃を構えながら後退した。

 その後、タカラ・ギアはシヴァロマを護衛してヨルムンガンドまで送り届けた。やがてもう一隻のヨルムンガンドがドッキングし、世界蛇は双頭となる。
「けっきょく、クラライアは来なかったのか」
「あの女にとっては、貴様を始末できる絶好のチャンスだ。何処かで高みの見物をしているだろうよ」
 戦場を求めて高揚している双子の弟の見解に溜息つく。無論、彼に対してではない。
『婿どの……』
 アームの先を突き合わせ、もじもじするタカラ・ギア。それにしても、このような低予算でよくこれほど多彩な動きが出来るものだ。
 シヴァロマは彼に改めて向き直った。
「命拾いをした、タカラ・シマ。礼を言おう」
『! あ、そんな。お礼なんて……えへ、うへへふひひ』
「………」
 シヴァロマは知らぬ「タカラが言われたい台詞ランキング一位」という地雷を踏み抜いたことにより、タカラ・ギアが気色の悪い笑い声をたてながらヨルムンガンドの床をローリングする。
 そんな彼を爪先で止め、デオルカンが愉快そうに覗きこんだ。
「こいつがタカラ・シマか」
『わっ! ……デオルカン様? うわわ、顔近いです近いです』
 小娘のようにモノアイをアームで覆って転がる蜘蛛型モビルギア。だから、なぜそのモーション性能の予算を素材に回さなかった。
「双子が世話になったな。こやつに恩を売ってやろうと思ったんだが、貴様のせいで台無しだ。賠償しろ」
『えぇ、賠償すか?』
「その者の言葉を本気にするな」
 呆れつつ、シヴァロマは横転するタカラ・ギアを捉えて自立させ、モノアイを睨むように覗きこむ。
『えっ、あっ、婿どの、顔が近……』
「重ねて礼を言う。よくやった。大した手柄だ、タカラ・シマ」
『わわ』
 タカラ・ギアはバタバタとアームを動かし、シヴァロマの手から逃れる。
『うっ、そんな褒められたら俺』
「……なぜ泣く」
『お、おお俺、もう帰ります』
 返事も待たずにタカラ・ギアは性急にシャットダウン。惜しむ間もなかった。

「………」
 光の消えたモノアイを眉を顰めて見下ろしていたが。
「あと二ヶ月か」
 思わず呟き、それを笑った双子の弟を鋭く睨んだ。


***


 シヴァロマは限界だった。
 あらゆる意味で限界だった。
 目は血走り、血管は浮き出、筋骨は盛り上がり、吐く息は鬼か悪魔の如し。出会う人すれ違う人が悲鳴を隠せない。失神者さえ続出した。

 タカラ・シマめ!
 このうえは生かしてはおけぬ!!

 だんだんと目的をはき違えて来ていることにすら、シヴァロマは気づかない。
 あらゆる雑事を倍速で片付け、あまつさえ仕事が残った状態でデオルカンに押し付けてまで志摩旅行を早めた。
 その頭にあるのは、タカラ・シマへの殺意。それのみである。

―――なぜ「会いたくて会いたくて震える」が「生かしておけない」に脳内変換されるのか、シヴァロマの思考回路は謎に満ちている。

 航行ですら苛つくので、体が鈍るのを覚悟の上でスリープポッドに入った。これで寝て目が覚めれば志摩に到着する。
「殿下、お目覚めください」
 想像以上に早かった。
 だが、これからが少々長い。長旅につかれた体を癒し、リハビリで元の状態に戻さねば。

 ホーク・ホールから志摩までの数日間で体を戻し、貧乏ゆすりをしたい思いでじりじりとヨルムンガンドがステーションに着陸する瞬間を待った。

「婿殿!」

 それは、それは嬉しそうに。
 めかしこんできたのだろう、婚約の際に植えたという千年桃花の羽織を纏ったタカラ・シマが満面の笑みで両手を広げ駆け寄ってくるのを、

 片腕に担いで攫った。

 ところで、アダムアイルは時速五十キロほどで走る。様々な臨界点を突破したシヴァロマはK点をも突破「ひげへえええひょへえあはあああ」と間抜けな悲鳴を上げるタカラ・シマになど構わず、志摩の宮殿にあたる庁舎にひた走る。
 千鳥居を駆け上がったところで(※移動装置は無視)特殊装甲の踵でブレーキをかけ、ややドリフト気味に宮入りを果たす。
「む、む、むこ…どの……?」
 軟弱にもシヴァロマの肩の上でへろへろと震えるタカラ・シマを睨みつけた。

「どこだ」
「はい?」
「貴様の部屋だ」
「………」
 タカラ・シマは震える指で上を指した。ゆえに階段を跳躍して昇る。タカラ・シマがまたも悲鳴を上げた。周囲も上げた。上げるほうが普通の感覚だが、その時のシヴァロマには「喧しい連中だ、騒乱罪で逮捕してやろうか」としか考えられなかった。

 ちなみにシヴァロマの側近もいたのだが、未だ宮殿に到着出来ていない。出来るはずがない。

 三階までの行程を四歩で済ませ、奥の角部屋らしいタカラ・シマの部屋を蹴破って押し入った。
 王子の部屋にしては、質素なものだ。むろん、家具はそれなりに高品質だったが、美術品の類はない。必要最低限といった程度だ。
 王族のくせにシングルのベッドで寝起きしているらしい。シヴァロマはタカラ・シマをその寝台へ放り投げた。

「ひぇえ、婿殿待って……まだ色々準備済ませてないですから、ていうかお道具もなくて……嘘でしょ!?」

 何も嘘ではない、真実で、現実だ。
 千年桃花の着物だと? ふざけた事をしやがって……はっ倒してくれようかこの野郎。脳内がデオルカンと同調しつつある(※デオルカンの名誉の為に言えばデオルカンはこのようなことは考えない)。やはり血は争えぬか。

 帯を引き裂き下着を破り捨て、着物に袖を通したまま裸体を晒すタカラ・シマの肌に手袋を外してそうっと触れてみた。
 指先からじわりと嫌な感覚が奔る。やはり、タカラ・シマ相手でも不潔さを感じる。とくに今の彼は冷や汗でじっとりと濡れていた。

 だが、それがどうした。

 不安がって腰の逃げるタカラ・シマの二の腕を掴んで肩を齧り、不道徳な腿の付け根を揉みしだく。
 その間、シヴァロマが蹴破り大破した扉には衝立が置かれていたが、シヴァロマの知るところではない。

「ああ、いやっ……」

 どうしてかタカラ・シマが抵抗を始める。それが腹立たしくもあり、煽られもする。
 とにかく出会ってすぐさまぶち犯す所存だったので、潤滑剤は携帯していた。ゴム? なんだそれは美味いのか?
 潔癖がなんだ。潔癖が怖くて警察やれるか。シヴァロマは潔癖だが汚れを恐れない。そんな弱点を抱えて犯罪者と戦えるはずがない。ただ少しかなり大分とても凄まじく嫌だというだけの話だ。

 例の調教装置のおかげで赤く熟れたけしからん乳首を思うさま舐めしゃぶり、性急に潤滑剤のボトルの先を足の間にこれでもかとかけ、ぐっちゃぐちゃに濡れそぼった性器に触れてさすってみた。
「あっあ、ああっ」
 胸を吸い、弄りながら性器を愛撫すれば、すぐに達して潤滑剤と精液が溶け混ざってわからなくなった。

 膝裏に手を差し込んで(手がぬめって掴みにくい)局部を露わにする。
 てらてらと光るアナルがきゅうっと怖がるように窄んでいた。
「むこど…むこどのっ……らんぼうしないで、お、おねが………」
 いつものシヴァロマであれば、タカラ・シマの泣きそうな顔は罪悪感で胸が締め付けられるはずなのだが、この時は完全に理性が飛んでいた。

 片足だけ上げさせた姿勢でぬぐぬぐと指をさしこみ、具合を試す。どれほどタカラ・シマが指を追い出そうと締め付けても、潤滑剤の魔力には敵わなかった。
 すぐに指は三本ほども受け入れるようになり、シヴァロマは張り詰めた自身を一気に突き入れた。
「うっ……ぐぅ」
 苦痛のうめき声がタカラ・シマの喉から漏れる。そのまま動かしても暫くは苦痛の悲鳴を上げていた。それさえ、今のシヴァロマには快楽のスパイスでしかない。

 しかし、一度は即席性奴隷調教を受けた身。すぐに順応してシヴァロマの背を引っかきながらもがき喘ぐようになる。
「んあぁんっ、むこどの……むこどのっ…あひ、あ、ああぁん、あ…っ!」
 アダムアイルの規格外サイズのペニスは簡単に小柄なタカラ・シマの直腸の奥にある秘所を暴いて抉りつける。抱えた足は暴れ、つま先がきゅうと丸まって快楽を主張した。

 シヴァロマのほうはといえば、潤滑剤が溢れて滑りが良すぎるあまりに快楽をうまく得られず、遮二無二腰を動かしていた。可哀そうなタカラ・シマはおかげで何度も何度もドライオーガズムを経験し、声が枯れるまで泣き叫び、シヴァロマに犯され続けた。

「――――婿殿! それ以上は息子が死んじまう!!」

 義父となったカサヌイ・シマの叫びではっと我に返る。
 のろのろと首を動かして視線を落とした先には、タカラ・シマは何の反応も返さずただ揺さぶられるがままになっていた。





 タカラ・シマが治療室へ運ばれ、シヴァロマは洗浄ポッドで身を清めてから少し。
 あの、壊れた人形のようになってしまった姿が脳裏から離れず、祈るようにして時が過ぎるのを待っていた。
「いやあ、びっくりしました」
 案外と平気そうな顔で帰って来た時には、反動で殴り倒しそうになったものである。

 ここは、客用に作られたという宮の離れ。
 朱塗りの御殿とは違い、素朴な木造の美を追求した屋敷で、昨今の宇宙ではまずお目に掛かれない見事な花や獣の木細工が柱などに散見される。
 縁側に置かれたカウチにいたシヴァロマの隣に腰を下ろし、タカラ・シマはにこにこしている。
「何がそんなに嬉しい」
「ええ? だって婿殿がDスーツなしで抱いてくれましたし、あんなに余裕なく俺を求めてくれたんだなって思うと、もしかして俺、愛されてる? って」


 愛?


 とんと縁のない単語だ。好悪ですら、シヴァロマにはよくわからぬというのに。
「それにね、案外、平気だったから。ううん、婿殿だからかな」
「なんだ」
「俺ね、むかし、海賊に凌辱されたんですよー」

 覚えていたのか……

 あまりに何でもない風にふるまい、助けたシヴァロマにも何も言わぬもので、てっきり幼さと事件のショックで忘れ去っているものと思った。
 シヴァロマも最近までは忘れていたが、タカラ・シマと結婚するにあたって過去を洗い、そして思い出した。あの小さな小さな痛ましい被害者と、図々しいほどふてぶてしいこの男が重ならなかったのだ。
 しかし、よくよく思い返すと海賊どもの性器を食いちぎって回ったらしいので、やはりタカラ・シマは幼くともタカラ・シマだったのだな、と今なら思う。

「こんな俺でも、それなりにトラウマがあるみたいで、今でも棒状のものを口元に持ってこられると、ダメなんです。婿殿はイラマチオとかしないから大丈夫でしたけど」
 けたけた笑うタカラ・シマは、先ほどの出来事をなかったことにしようとしているようだが。
「……許されたいとは思わない」
 シヴァロマは覚悟をしていた。あれは、例え夫婦間であっても許される所業ではなかった。シヴァロマともあろうものが、なぜああまでととち狂ってしまったのか、理解に苦しむ。

(なぜ、俺は……)
 隣で笑うタカラ・シマ。この男は、このように笑っている姿がよく似合う。それなのに、どうしてあんな顔で泣かせられた? どうしてそのくるくると志摩の四季よりも変化に富む表情が消えて失せるまで犯すことが出来た。

「俺は自首しようと思う」
「はあ!? いやいや、あれは和姦ですって。聞いてましたか? 俺、嬉しかったんですよー」
「そういう問題ではない。規律は、規律だ」
「規律だっていうなら、和姦で自首してきた男がいたとして、婿殿はどうしますか?」
 それはもちろん、追い返すが。追い返すけれども。

「だが、このままでは俺の気がおさまらぬ」
「そこまで仰るなら……うーん。そうだなあ、キス、してみませんか?」
「なに?」
「キスです。唇と唇を合わせて」
「あの、数百種類の菌が蠢く粘膜と粘膜を合わせるアレか?」
「そういわれてしまうと、アレなんですけども……」
 苦笑しながら、タカラ・シマは庭木の下に積もる葉を指さした。

「あの中には大量のダニがいます」
「ぐぬう!!」
「ダニは、葉を食べて分解し、やがて土にするのです。土から植物は生まれ、その植物を動物が食む……水も似たようなものです。ダニは星の清浄者なんです。決して汚いものなんかではないんですよ」

 シヴァロマは、いや現代において殆どの人間は人工整備された建物の中で育ち、生涯の殆どをそうして過ごす。殺菌消毒は当たり前のことで、それが清潔であるという認識がぬぐい切れない。
 志摩のような保養惑星では、いやかつて人類が住んでいたテラでは、天然の分解者がすべてを循環させることが当たり前だった。それこそが、志摩こそが自然としてあるべき姿なのだ。

「掌にも菌はいます。いるべくしています。俺たちを守ってくれているんです。あんまり嫌わらないであげてください。人間と人間の間に本物の愛は存在しないかもしれないけど、この子たちだけは間違うことはあっても絶対に裏切らない」

 シヴァロマは己の手を見つめた。この手が菌に塗れていることは知っている。あらゆる皮膚、あるいは体内にも菌はいる。
 他人のそれが嫌だという感覚はあった。
 しかし、それらがタカラ・シマを、この妻を守ってくれているのだと思うと、急に感謝の念のようなものが沸いてきた。

「キスを、するか」

 尋ねると、タカラ・シマは頬を染めて頷いた。夕日の赤色を吸ったような色であった。
 シヴァロマはごく自然に、嫌という感情もなく、タカラ・シマの柔らかな唇を味わった。





 月日はあっと言う間に過ぎ、志摩でのひとときは夢の泡のように消えていった。
 滞在中、挙式の時にはまったく眼中になかった志摩の美しい景色を妻と共に堪能し、行く先々で体を重ね、口づけをして、体温を分かち合った。

 タカラ・シマに教わった。このことを愛というのだと。触れ合い、寄り添い、胸が熱くなるこの感情が愛なのだと。

「ずいぶん腑抜けた顔になって帰ってきやがったな」
 皇軍警察を預かっていた双子の弟に揶揄われても調子が出ない。
 久方ぶりの軍用マントを重く感じながら、シヴァロマは双子をぼんやりと見返した。
「デオルカン。皇族をやめるにはどうしたらいいんだろうな」
「はあ? アダムアイルは死ぬまでアダムアイル、やめられるもんかよ」
「ならばせめて、皇軍警察を辞したい。幼少期からやっているんだ、もうよかろう。時間はとれぬし婿に入ったというのに志摩にも行けぬ」
「本気か? 骨抜きにされちまったのか」

 なんとでも言うがいい。もはやうんざりなのだ、犯罪者の尻を追いかけて不毛な戦いを続けるのは。
 タカラ・シマはヤマト王になると息巻いているし、それを手伝ってやりたい。アダムアイル皇子シヴァロマとしてではなく、ただのシヴァロマになりたかった。
 こんな感情は初めてだ。

「いや、いや、いや……せめて次の皇帝が即位して皇子が育つまでは無理だ」
「ならば皇宙軍を俺によこせ。貴様にそのまま皇軍警察を任せる。そのほうが自由が利く」
「冗談じゃないわ。こんなクソな職務やってられるか」
「そのクソな職務をずっと俺に任せきりにしていた貴様が言えたクチか。嫌ならばさっさと即位して子供を作ることだな。
 これから陛下に言上してくる」
「ちょっと待てロ……ロマァ!!」

 何とも晴れやかな気分だ。清々しい。皇宙軍なら皇軍警察と違って数か月に一度は休みをとれるし、タカラ・シマをヨルムンガンドに誘うことすら可能だ。



 愛を知らず、愛を知った皇子、シヴァロマ。
 そして彼に愛を教えた王子タカラ・シマ。
 彼らの物語は続くが、シヴァロマが愛を知ったところで一応の幕が下りる。

 願わくば彼らの愛が永遠のものであることを、千年桃花に祈る。


【第一部 完】

創作:竜屋

竜屋  いい物件が見つかって、良かった。  湖に面しているのが、難点と言えば難点だが、隣の住宅から数百メートル離れている、一ヘクタールの庭付き物件で、この値段はそうない。 「あ……いなか者ですので、よう分からなくて。どこか、欠陥やら……?」  不安に尋ねると、いかにも火...